昭和38年(1963)、壬生照順・丸子亘・望月一靖など15名の委員会によって企画運営され、
7月に東京新宿の小田急百貨店で開催された『科学と霊魂の間展』という展示がありました。
主催は「科学と霊魂の間研究会」で、藤澤衛彦もそこに参加していたことがわかっているほか、
展示会の際に製作されたパンフレットに
展示の趣旨をしるしたことばと、霊魂についての文章を草しています。
「科学と霊魂の間研究会」は数年間つづいていたようですが、パンフレットは展示に際して各界(おもに宗教者や宗教学の研究者)から
解答をあつめたものを編集した副読本のようなもので、研究会参加者自体の文章などはほとんど無く、
展示の内容そのものは余りうかがえません。(衛彦の文で『融通念仏絵巻』や浮世絵などに触れている点から、そういうものが陳列されてたと想像はできます)
(展示や会員については『大佐用』vol.128「科学と霊魂の間 展と 藤澤衛彦」(http://yokaidoyukai.ho-zuki.com/taisayo128.htm)にすこし詳述
また、パンフレットへの寄稿者などは『大佐用』vol.129(http://yokaidoyukai.ho-zuki.com/taisayo129.htm)に一覧を作成してます)
ここでは、そのパンフレットに掲載された藤澤衛彦による趣旨のことばと文章とを再録しました。
〔妖怪仝友会/氷厘亭氷泉・2018.1.6〕
霊魂の問題は、宗教の起原論あるいは生命の起原論もしくは進化論に結びついて重要な論目となり、高貴宗教においては、いわゆる人間救済の思想上、常に必然的に問題とされるものであります。
霊魂信仰となると、未開宗教、自然宗教にも盛んで、宗教民族学、民俗学の取扱う問題が提起されます。
科学はいま宇宙問題ととりくむ一方、生命の起原にまでメスを入れました。この機会こそ、事実わたくしたち平和を願う人類の霊魂を再検討すべき時でありましょう。
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◇ I ◇ 霊のありか
天地のはじめ、草木がささやきをかわし、山川にふしぎな霊がすんでいたことが、日本の古典(『常陸国風土記』)に見えています。 ◇ II ◇ "たま"の名・たままつり山の霊を信じて山の神をまつり、川の霊を神をまつるかんがえは、神霊をみとめて神とよび、神霊をあらわすことばとしてタマ(霊)、ミタマ(身たま)、タマシイ(魂・霊の為業)、カミ(神)をかんがえ、たままつり(神や祖先のたままつり)をおこなってきました。 ◇ III ◇ 霊魂(たましい)と天皇霊"たましい"は"たま"の活動作用で、力の源であると考えた日本古代社会では、一ばん威力のある"たま"は"太陽の表徴の天子のたま"で、日継の皇子が天子になられるのは、祖先のたましいが天皇の御身[みま]にはいるからで、これが、たましいの憑いた(着いた、のりうつった)"すめたま"で、"たま"さえはいれば天皇として誕生されるとかんがえられていました。 ◇ IV ◇ 生見霊[いきみたま]の祝[いわい](生盆[いきぼん])たましいを、服従のしるしに、上(尊い方・君主)に分割して着けるかんがえは、鎌倉時代には武家階級にも入り、室町時代には、将軍家に集って生御魂を拝み祝詞をのべる風習を生じ、盆には、こどもたちが、じぶんの父母にあたる方に挨拶にゆく(親を拝みにゆく)風習を、庶民の間にまで流しました。今も諸国にのこる"いき盆"(生きている親の魂すなわち生御魂をまつる)という生見霊[いきみたま]の祝儀は、ふつう盆礼(十五日)前に行われるしきたりで、長野県伊那地方の生盆は七夕と十三日との間に行われています。 ◇ V ◇ みたまのふゆまつり
冬になると、太陽は一たん威力を落す。ということは、冬至に日がみじかくなること、すなわち太陽の光がおとろえて生命を滅しようとする刹那で、そうはさせじと太古の人間は太陽神に火をおくって冬至祭を行いました。それで太陽神は再生するとかんがえていました。 ◇ IV ◇ "あたま"(頭脳)は太陽をかたどる"アタマ"(亜魂)
古代人が神霊をみとめて、一番だいじなものをカミ(上・神)としました。 ◇ VII ◇ 霊魂の去ってゆくすがた
仏教伝来このかた、日本でも、髪を剃って本能を除く思想(得度剃髪)が行われ、人間の死後、脳機能の喪失とともに、霊魂の去ってゆくすがたをみとめました。 ◇ VIII ◇ 日本の幽霊
肉体の死によって、霊魂は人体をはなれる。これが、つまり"もの(鬼)のけ(気)"・物の怪であって、鬼の字をキすなわち"気"としたのは中国文字が移入されたのちの当字であり、鬼をオニすなわち"隠"としたのは、霊魂が目に見えない隠れたものの意味を示しているからです。 ◇ IX ◇ 人の形そのままの幽霊日本の幽霊が、人間のかたちそのままであらわれた古記録としては、1 宇多天皇の寛平七年(八九五年)に死んだ、右大臣源融の霊、2 醍醐天皇の延喜三年(九〇三年)に死んだ菅原道真の霊の二体の亡霊がはじめのようで、人魂鳥形の変生思想(例・日本武尊の白鳥化など)から、人形の幽霊出現までには、かなりの年月をついやしていることがわかります。 ◇ X ◇ 幽霊能・幽霊芝居の型
幽霊の影的存在を人格化したのは、日本のばあい、室町時代の幽霊能の所作がはじめのようで、いくつかの幽霊の型(怨霊型・依頼型・復讐型・懺悔型)をつくりだしました。 ◇ XI ◇ 地獄極楽の表現
幽霊表現の絵画は、はじめ、末世思想による幽霊観の表現によってはじめられました。その後、次第に、乱世に直面した時代人が、乱世興亡じつに泡のように、世のはかなさを目のあたりに体験し、この世を末法の世と観じるようになると、来世を願い、来迎を夢みる、来法思想が人びとの心をとらえはじめだした。これは当然、人界にあらわれる幽霊の上にも変化をあたえずにはおきません。 ◇ XII ◇ 幽霊現象・妖怪変化の絵画化
事物百般の上に鬼属を活躍させた、土佐光信や経隆の想像絵巻は、江戸時代にいたって、六条而チ斎や鳥山石燕にいたって、秀でた手法や表現の巧みな工夫から、日本伝統の怪奇体をはじめ、中国輸入の怪談をも日本化し、庶民を魅惑する新百鬼夜行の数百体によって、日本のあらゆる種類の幽霊や妖怪が、絵画化されてから、いままで、ことばの伝承や記録伝承によってのみ伝えられた、幽霊現象や妖怪変化が、世界に比を見ない多数をもって。世の人人の前に提出されました。 さて、あなたは、いま、"科学と霊魂の間"を、どう解釈されるでしょう。 |
★底本 『科学と霊魂の間展』(パンフレット) 1963年7月・科学と霊魂の間研究会
(1〜2ページ)「科学と霊魂の間 "展" 趣旨」(39〜44ページ)「民俗学の立場から観た霊魂のゆくえ」 ――衛彦さんの文は本文のはじめと、おわりに位置している。