『今昔画図続百鬼』の最初の序文は、頑庵[がんあん]によって書かれています。頑庵は、頑菴道人とも。山本北山(1752-1812)の漢詩の本の編纂にも関与しており、日暮里にある正覚寺の性山[しょうざん]という僧侶だったといいます。和歌をよくしていた人物のようです。
この序文は、すべて漢文で書かれていますが、ちゃんと訓点は振られています。
『今昔画図続百鬼』の題簽には、『画図百鬼夜行』に用いられている「陰・陽・風」の「六気」のうちの後半「雨・晦・明」が後編の「上・中・下」を示す巻次として用いられてもいます。これは漢籍などに存在して来たものです。しかし、本文の側には特にそれらの記載はなく題詞も設けられていません。
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▼墨画
墨のみで描かれた絵画。水墨画・単彩画。
▼丹青[たんせい]
赤と青の絵の具。彩色すること。頑庵は「墨画」がだんだんと発達して「丹青」も生じた――という流れを語っていて、以下の対句につながってゆきます。
▼大篆
統一された漢字の字体の中では一番ふるいもの。印鑑などに使用されています。
▼八分
漢字の書法のひとつ。隷書体。「大篆」から「八分」が生じていったとしています。
▼結縄
文字が発明される以前の、太古のむかしの情報の伝達や記録のされ方。
▼六経
儒学の立派な書物たち。「結縄」から「六経」が生じていったとしています。
▼書与画同厥体
「書」と「画」というものはおなじものであるということ。
鄭樵による「書与画同出 画取形 書取象」という『通志』の「六書略」(巻31・象形)に出て来る説明は、漢字の「象形」についての説明として良く引かれているものです。
▼古之人而画古画 不要厥雅焉自雅也
むかしのひとびとが、むかしの絵を描くということは、「雅」であることを意識せずとも、おのずから「雅」な絵になっているものだ――ということ。
▼今之人而写古画 尤患其易俗焉耳
対して、近ごろのひとびとが、むかしの絵を真似て写しても、「雅」ではなく「俗」におちいってしまいがちである――ということ。
▼茲用世難得 其善画 至伝神妙
「伝神の妙」に至るような絵画が描けるような人物を、いまの時代に求めることは難しいことダ。
▼都下画人石燕
「都下」は、みやこのちまた。江戸の住人ということ。
▼画譜三巻
「画譜」は絵本・絵手本のこと。ここではつづけて「命曰 百鬼夜行」(なづけて百鬼夜行といふ)『画図百鬼夜行』のこと。
鳥山石燕の作品は肉筆画が主流だったようなので、公刊されていた類の版本は、『鳥山彦』(石燕画譜)や『絵事比肩』も含めて、ほぼこれに属するものに限られます。
▼詮虎[あきとら]
屋代弘賢(1758-1841)のこと。幕府の祐筆役として勤めていた武士で、蔵書家としても高名。序文のあとのほうに出て来る「詮乕」も「乕」は「とら」の字で「詮虎」におなじ。号はほかに輪池が有名。
山本北山のもとで儒学を学んでおり、頑庵(性山)との関係もそこにあったようです。
▼題言
序文のこと。
▼燕子[えんし]
石燕どの――といった意味。「余雖未識」とあるので頑庵と石燕は直接の知り合いではなかったようです。
石燕は、屋代弘賢を通じて頑庵から是非序文をもらっていただきたい……と頼んだそうで、石燕と弘賢の交友関係をココでひとつ知ることが可能です。
▼[やまいだれ+占]
瘧[おこり]などの熱病。――屋代弘賢から依頼を受けて石燕の絵本をいっしょに受け取ったとき、頑庵はチョット熱っポくて体調が悪かった。
▼美哉 燕子之為技
「美なるかな」というのが、頑庵が石燕の画技に対して贈っているほめことば。――「技」の字は「枝」とありますが、意味としては「わざ」のほうだと言えます。
▼奇則画驢悩僧 逸乃誤筆成牛
「画驢悩僧」は『盧氏雑記』にあるはなしで、呉道玄[ごどうげん]がある僧侶のもとへ行ったところ、礼を失した態度で僧侶が接したので、帰り際に呉道玄は壁に1頭の驢[ろば]の絵を描いて去った。すると、その夜に驢は大暴れをして僧房の家具をめちゃくちゃに荒したソウナ。
「誤筆成牛」は『晋書』の列伝にあるはなしで、桓温[かんおん]が王献之[おうけんし]に絵を描いてくれと頼んで扇を渡したところ、描こうとして持った筆から誤ってボタッと墨が落ちて紙を汚してしました。しかし、王献之は逆にその落ちた墨のかたちをそのまま、烏駮[まだら]な牛に活かした立派な絵を扇に仕上げたソウナ。
――ドチラも、絵画についての故事としてしばしば紹介されてよく知られていました。むかしのひとの絵の技術が常軌を逸しているということを示しています。
▼其変態百体 細閲一々改観
「変態百体」は、いろいろなかたちの妖怪たちを示したもの。こまかくながめてゆくと、いちいちみどころを改めさせられる――と感心を寄せています。
▼一洗 多日[やまいだれ+単]熱
「たんねつ」は、おなじく熱病のこと。たのしく『画図百鬼夜行』を眺めているうちに、それまでの熱っポかった症状も一洗して吹き飛んでしまった――と賞ているようです。
▼試以此方古之画譜云物 筆之精孔之惟肖
この画譜(『画図百鬼夜行』)を、むかしのひとびとの描いた、いにしえの画譜とを試しに並べて見くらべて見ても、その筆のこまかさに差はない――と、またつづけて褒めています。
最初のほうの「今之人……」の文を思い起こせば、「雅」がおのずから発生してるような「絵」だという賞賛の仕方なのでしょう。
▼不同庸庸之人
燕子の絵画の技量は、並の人間のものではないゾ――というほめことば。
▼世之精茲技輩 概見可曙焉
「精茲技輩」は「このわざにくわしき輩」で「画家」たちのこと。頑庵は画家ではないので、あえてそのような言い方を用いています。「概見して曙すべし」は「みて目を覚ましなさい」といった意味合いでしょうか。
▼時 安永戊戌 季秋日
安永7年(1778)のこと。季秋は9月のこと。この時代の出版の多くは発売をお正月にあわせることが多く、発売の前年に序文は制作されるので大抵こういうことになります。
▼東都 日莫里
「東都」は江戸のこと。「日莫里」は、寺院の僧侶だったという頑庵の住所から見ると「日暮里」をあらわしたものだと知れます。
▼吉祥林之穿牛観
「穿牛観」は頑庵の観名らしいもの。
up.2026.06.21

▼六気…◆『国語』周語下(解)曰「天有六気 陰陽風雨晦明也 地有五行 金木水火土也」◆『事林広記』曰「六気 陰陽風雨晦朔」
▼山本北山…儒者。古辞をいじくりまわさず、漢詩は自分の感じたことを率直に詠むべきであると提唱したことで知られるぞ。「はんにゃ」に出て来る般若声についての説を語っていた人物として朝川善庵『善庵随筆』にも名前が見られるのぢゃ
▼編纂にも関与…1783年に刊行された山本北山の漢詩の理論書での例は、鳥山石燕百石乳との連動note記事「頑庵・頑菴道人もヤッと登場」に掲載しておいたぞ
▼頑庵は『作詩志[穀の禾が弓の字]』の序文(山田正珍の撰)の「字」を書くのを担当してもいるぞ。「頑菴道人 書」とあり、印には「性山」の名も確認出来るのぢゃ
▼厥…「厥」は「その・それ」の意味
▼呉道玄…唐の時代の画家として著名な存在。呉道子。玄宗皇帝が夢のなかで会ったという鍾馗[しょうき]のかたちをはじめて描いたといったような伝説もよく付与されているのぢゃ。郭若虚『図画見聞志』(巻6)では呉道玄の描いた鍾馗の図様は、鬼の目の玉を抉[えぐ]るかたちで描かれていたと紹介されているぞ
▼王献之…書家として名高い王義之[おうぎし]の息子のひとり。
▼肖…「肖」は「にる」(似る)という意味