文字や絵画などかたちの残った、読み取ることの出来る鬼質学的証拠が部分ながらも見ることが出来るようになるのは、この大和代から先のことである。文字や絵画などが残るようになった時代ということであるが、早く言えばこの時代からそれらが本格的に輸入されたり導入されるようになったということである。
寺つつき紀と鎮護国家紀のあいだに明確な区分差異はまだ設けられていない。
仏教渡来、飛鳥時代の頃から、平城遷都の頃(710年)まで。
推古天皇の頃、日本へやって来た曇徴などによって仏画などの絵画技術が多く伝わった。技術を伴う絵画や戯曲・詩歌などでの画像妖怪の発生が見られるのはこのあたりの時代であると言える。
▼物部守屋が死後に数千万羽の啄木鳥(きつつき)に変じて寺院を害したという話が命名の由来。――ただし、この守屋大臣が啄木鳥になる話が膾炙したのは『源平盛衰記』を通じてであり、源平合戦よりも後ち、鎌倉代以後のことである。
平城京の頃。文字資料として神代の記録(『古事記』(712)『日本書紀』(720))が実際つくられはじめたのはこの頃である。
この時代までの間に、実際に伝承妖怪として存在・拡大していた妖怪たちがどのようなものであったかを追究してゆくことは、漠然と「古い時代から妖怪はみんないたものだ」と捉えられがちな各種妖怪たちの立ち位置や発生原初のすがたを明確にしてゆく上でも重要な研究領域ではある。
▼厳密にいえば神代の情報のほとんどは、鎮護国家紀あたりの情報空間の影響の下での神代であるといえる。
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