手の目
「てのめ」は、呼び名のみが絵に添えられています。
まえへ|つぎへ石燕は、両の手のひらにひとつずつ目の玉が生えている座頭[ざとう]さんなすがたをした妖怪として「てのめ」を描いています。この座頭さんは、三味線や琵琶などを背負って持っていないことから、導引や鍼灸などを生業にしているほうの盲僧だと見られます。
あたり一面は腰からしたはうかがい知れない深い薄[すすき]の生えた原っぱになっており、道路は見られません。いっぽう画面の左から右にかけて雲あるいは霧が横引きに配置されています。
「手に眼がある」というかたちは、一般には観音さま、特に千手観音[せんじゅかんのん]の特徴として知られており、1000ある手のひらにそれぞれ1こずつ、目の玉があることが知られています。
『碧巌録』にある、雲巌[うんがん]と道吾[どうご]の禅の問答には「観音さまにはどうして手の眼があるのか」という有名なものがあり、その回答でもある「通身是手眼」は、禅の有名なことばを引いた版本などでも、だいたい出て来るようなものでした。
また、『臨済録』にある、麻谷[まよく]が臨済[りんざい]に質問した「観音さまの手の眼はどれが本当の正眼なのか」という内容も、どれが本物かという疑問自体がいらない――ということに通じる問いとしてよく知られています。
『諸国百物語』(巻3)の「ばけ物に骨をぬかれし人の事」には、墓場に出没した手に眼のあるかたちの妖怪に襲われて、皮だけにされてしまった若者のはなしが書かれており、観音さまにあるような「手に眼がある」という特徴が妖怪たちにも移入されてたことがわかります。
本文に「まなこは手のうちにひとつありて」とあるように、挿絵でも手のひらに「目の玉」がひとつ生えている様子がキチンとデザインされて描かれています。
風貌自体は80歳ぐらいの白髪のお爺さんであったとあり、『諸国百物語』に登場しているこの妖怪は「てのめ」の風貌そのままではないわけですが、この「手に眼がある」という特徴のある画像要素を活かしてリデザインしたのが「てのめ」であると見ることは、無理のないものでもあります。
▼手の目
「てのめ」は、見ひらきでいっしょに描かれている「たかおんな」との関係がハッキリしない組み合わせですが、版本の挿絵にある画像要素からリデザインされた画像妖怪同士の対であると考えることは可能です。
up.2026.06.16
■手の目
▼座頭…盲僧に与えられた官位のひとつ
▼三味線や琵琶……琵琶・三味線・琴などをはじめ、座頭さんたちは楽器の演奏を仕事としているものが多くいたぞ。ソチラについては「うみざとう」や「おおざとう」なども参考にするのぢゃ。
▼千手…千眼千手とも言われるのぢゃ。お経によっては84000ともされていて八万四千の手眼があり、「八万四千清浄宝目」であるとも称されるぞ
▼手のうちにひとつありて…挿絵では、左の手のひらの目を見せつけている様子が描かれているが、右の手のひらは見せておらず、両の手に眼があるのかはハッキリ描かれていないぞ。しかし平素に考えれば両の手にひとつずつ目の玉があるものだとは考えられるのぢゃ
▼画像要素…石燕には、『諸国百物語』からは車輪の真ん中に人間の顔があるという画像要素をリデザインして「わにゅうどう」を描いた実例などもあるのぢゃ