垢嘗
「あかなめ」は、呼び名のみが絵に添えられています。
まえへ|つぎへ石燕の「あかなめ」は、ぺろんと舌を出した表情で、戸棚風呂[とだなぶろ]の外に立っている様子で描いています。お風呂屋さんあるいは入浴施設をしつらえているお屋敷に出没している様子を描いていると見えます。
戸棚風呂の外には、お風呂に使うためのお湯や水を入れてある手桶[ておけ]や水桶[みずおけ]柄杓[ひしゃく]などが小道具として描き込まれてるほか、浴衣[ゆかた]も掛けてあります。
狩野家で描かれて来た絵巻物には「あかなめ」は存在しておらず、狩野系統とは別の流れから石燕が画題として持って来ていることがわかります。舌以外では、脚の爪が1本ダケなのがデザインとしては特徴ですが、何か粉本[おてほん]があったのかは不明です。
山岡元隣『百物語評判』(巻2)では「垢ねぶりといふ物は ふるき風呂屋にすむばけもののよし申せり もっともあれたる屋敷などにはあるべく聞え候へども」とダケあり、「垢ねぶり」[あかねぶり]という妖怪がお風呂屋さんや、武家屋敷などに出る――といったようなはなし自体が存在していたことが、おぼろげにわかります。
当時は火災の防止のために江戸などの都市部ではお城や大きな敷地の屋敷や寺社など以外、普通の住宅には風呂の設置が許可されていませんでしたから、風呂やお湯を浴びて身体を洗う施設といえば、ほとんどはお風呂屋さん、お湯屋さんでした。
『百物語評判』(1686)の時点では、いくつも具体的なはなしがあったのかも知れませんが、もともと年代の隔たりがある『画図百鬼夜行』(1776)の時点では、既に「『百物語評判』に風呂屋に出る妖怪だと書いてある」ぐらいのことがらしか理解されていなかった妖怪だったとも言えます。
たとえば、銭湯を舞台にした式亭三馬『浮世風呂』(1809)の時代などには、もう「あかなめ」という存在自体は江戸ッ子にとってはおぼろげな存在になっていたようで、同作に「あかなめ」たちの話題が常識として登場することもなかったようです。
江戸のお湯屋さんでは、蒸気を逃げづらくするために、とっても低い位置に設けた「柘榴口」[ざくろぐち]と称する入口を浴室に設置するところが増えていったので、戸棚風呂の構造自体を用いて営業している件数自体も少なくなっていたとも言えます。
up.2026.05.18
■垢嘗
▼戸棚風呂…戸棚のような戸が浴室の入口にある、古い風呂場の構造ぢゃ。湯気が外に出ないようにすぐに戸は閉めるのだぞ
▼垢ねぶり…「ねぶる」も「なめる」もおなじことぢゃ。ぺろぺろと舌で風呂場をなめるぞ。
▼はなし…玄紀先生『日東本草図纂』(1780)にも「舐垢」[あかねぶり]が載っておるぞ。これは堀田さまの屋敷の風呂場などに出たということなので武家屋敷に出た例ぢゃが、この玄紀先生の肉筆の本のほかには記載例が把握されてないぞ。同書に描かれている「あかねぶり」の絵は、石燕の描いているものとはデザインは重なっておらぬぞ。
『大佐用』vol. 17 「あかなめのはなし」でも特集したのぢゃ
▼おぼろげ…実際に「あかねぶり・あかなめ」に関することは「風呂屋などに出る」ということ「垢を舌でなめるらしい」ということしかわからぬのぢゃ。『百物語評判』で元隣が語っている垢から生じた存在なので垢を食べ物にしているのだろうというのは、あくまで「生物は生まれた環境のものを食べて生きる」という生物全体についての理論だぞ
▼年代のへだたり…玄紀先生『日東本草図纂』(1780)に記載されている武家屋敷のお湯殿に出た例も、正徳や元禄のころのはなしだとしておるので、1680〜1710年代ごろのはなしを載せているということになるぞ。
▼営業している件数…19世紀になっても、地方では戸棚風呂を設置していた店や宿はあったようぢゃ。◆喜田川守貞『守貞漫稿』(22編)曰「戸棚風呂と云物 三都には稀なれども他国の銭湯には往々有之」