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わにゅうどう

鳥山石燕百石乳|今昔画図続百鬼

わにゅうどう

輪入道

「わにゅうどう」には、車返しな「勝母之閭」の内容も盛り込んだ填詞[かきいれ]が添えられています。

まえへつぎへ

■顔が車輪から生えているぞ

石燕は、火をぐるぐるとまとった大きい車輪の中心に、髭坊主な男の顔が生えているかたちの妖怪として「わにゅうどう」を描いています。

周囲には、戸が引きよせられ、店棚なども閉じられた家々や木戸、雲などが描かれており、夜更けの町のなかの様子を示しています。「わにゅうどう」の填詞[かきいれ]では、どこに出るといったことは全くあつかわれおらず、この町並みがドコ想定なのかは何も提示されていません。

■大きく分けるとふたつの系統

「絵」として描かれるうえでデザインされた「片輪車」は、「美女が乗っているもの/車輪に顔が生えているもの」のふたつに大別出来ます。
「美女が乗っているもの」なデザインの「片輪車」は、ひとつ前の絵で石燕が「かたわぐるま」として描いているようなデザインです。

いっぽうで、「車輪に顔が生えているもの」のなかには、その顔が「坊主のもの/美女のもの」のふたつの系統に振り分けることが出来ます。19世紀に入ってからの絵にも、「車輪の顔」が「美女」な「片輪車」が描かれていることが多いです。

「車輪の顔」が「坊主」な「片輪車」は、『諸国百物語』(1677)黒本『栄花物語』(1772)などでの絵が有名なものとしては挙げられます。「絵」にもキッチリ描かれているほか、填詞[かきいれ]でも「大なる入道の首」と示されているとおり、石燕の「わにゅうどう」もコチラのデザインを別箇に採って、画像要素の異なるものとして違う呼び名を設けて、別立てにしたことが明確にわかります。

▼輪入道
「わにゅうどう」は、見ひらきにいっしょに描かれている「おんもらき」とは、どこまで共通点があるのかはハッキリしません。

むしろ、ひとつ前に描かれている「かたわぐるま」とはおなじ内容を持った妖怪同士ということになるわけですが、おなじものすぎるので重複を避ける意味で、丁のおもて・うらに配置させてバラけさせたのかも知れません。

▼かた輪にて をのれと めぐりありくあり
「めぐりありく」は「廻り歩く」で、片いっぽうダケの車輪の妖怪が、自身でそのまま転がって、あたりを廻り歩いている――といったことを示しています。

▼これをみる者 魂を失ふ
「わにゅうどう」の走っているところを目撃したひとは魂を失ってしまうと設定されています。

これは「かたわぐるま」のはなしに見られる要素をそのまま引いているわけですが、『諸国百物語』(巻1)の「京東洞院かたわ車の事」では、自分をのぞき見ていた女のひとの子供をいつの間にか裂き殺しており、もっと直接な行動をとっています。

▼此所勝母[せうぼ]の里[さと]と紙にかきて家の出入の戸におせば あへてちかづく事なし
「此所勝母の里」という字を紙に書いて戸に貼っておけば、近づいて来ない――としているわけですが、こような展開は「かたわぐるま」のはなしには見られず、石燕が「わにゅうどう」に対して添えたドチラかといえば戯文な要素の内容のようです。

勝母[しょうぼ]は大陸にある地名で、曽子[そうし]あるいは孔子[こうし]が「親不孝な字面なのでよくない」ので立ち寄らなかったことで古くから人々によく知られています。お勉強のためによく使われていた『蒙求』にも「鍾離委珠」のなかで勝母のたとえは出て来ますし、『太平記』(巻29)にも登場します。

立ち寄らなかったとされる曽子は、よく物語のなかでは「車」に乗った状態で語られたり、描かれてたりしています。そのため、勝母ということばは「車返し」の意味合いが持たされてもいます。そのことを踏まえて、車輪の妖怪である「わにゅうどう」もおなじく「車」なので立ち寄らないとする設定にしていることが「おもしろい部分」なわけですが、曽子のイメージに「車」が当然のように入って来ない状態でないと、このおまじないの紙の意味は通じづらくなってしまうかも知れません。


up.2026.07.04

■輪入道




▼町並み…「かたわぐるま」では『諸国里人談』にあわせて近江国甲賀郡とわざわざハッキリ書いていたのに、コチラでは何もないぞ。『諸国百物語』を基準に考えるならば平安京ということになるが、「わにゅうどう」の側では書いていないのはナゼかということはよく考える必要もあるぞ
▼顔…呉春(1752-1811)などの描いている肉筆の絵には、車輪そのものに眼・鼻・口がある形状のものも見られるのぢゃ
▼栄花物語…『今様風俗 栄花物語』と角書つきでも表記されるぞ。藤原行成・藤原実方・清少納言なども登場するのぢゃ



▼諸国百物語…『諸国百物語』(巻1)の「片輪車」は、本文には「牛もなく人もなきに車の輪ひとつまわり来たる」としかなく、別段どのように顔がついているのかについての言及はないが、挿絵としてハッキリと車輪の中心に「坊主」な男の顔が生えたかたちで描かれているのぢゃ
▼字面…おなじようなものに「盗泉」[とうせん]という泉があり、ヤッパリ孔子は「字面がよくない」として水を飲まなかったことがよく知られているのぢゃ
▼曽子…曽参とも
▼鍾離委珠…収賄をして没収された張恢の財宝が、臣下たちに配られたとき、鍾離がそれを贓穢[ぞうあい]の品だとして捨てたことを書いているのぢゃ。鍾離はその理由をたずねられ、『史記』や『淮南子』にある盗泉と勝母のことを故事として語っているぞ。◆『蒙求』(鍾離委珠)曰「孔子忍渇於盗泉之水 曽参回車於勝母之閭」◆平川伸『箋註蒙求校本字引』曰「張恢と云者 民をいためて役人となり玉を下さる 鍾離汚れ物也と云て受けず」
▼太平記…『参考太平記』(巻29)曰「曽参回車於勝母之閭 孔子忍渇於盗泉之水」
▼車…『文選』(獄中上書自明)で曽子の「勝母」といっしょに語られている墨子の「朝歌」という地名に対してのはなしでも「迴車」[くるまをめぐらす]という表現が出て来るのぢゃ。墨子は「楽」をきらっていた結果「朝歌」という地名を忌んだというはなし。◆『文選』(獄中上書自明)曰「里名勝母曽子不入 邑号朝歌墨子迴車」
▼車返し…東海道の沼津にある「車返し」という地名の説明にも曽子のはなしは引かれることがあるのぢゃ。◆『海道記』(巻13)曰「勝母の里ならば曽参にあらずともいかが通らむ 曽子は孝心深き人にて不孝の者の居たる所は車を返して通らず」◆『東海道名所図会』(巻5)曰「勝母の閭[さと]ならば曽子にあらずとも誰もいかが通らん 曽子は孝ふかき人にて不孝の者のゐたる所は車を返して通らず」