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とうだいき

鳥山石燕百石乳|今昔百鬼拾遺

とうだいき

灯台鬼

「とうだいき」には、軽大臣[かるのおとど・かるのだいじん]のはなしに出て来る漢詩も盛り込んだ填詞[かきいれ]が添えられています。

まえへつぎへ

■人間を鬼のかたちの灯台にしたもの

石燕は、しゃべることの出来なくなる薬をのまされて、「とうだいき」にさせられていた軽大臣を画題として描いています。「とうだいき」は派手な衣装の鬼のかたちをした照明のための台で、石燕の「絵」では、蝋燭[ろうそく]が頭頂部に立てられるデザインになっています。

豹皮の服をつけた「とうだいき」のうしろには、異国らしさのある曲禄[きょくろく]や碁盤[ごばん]などが置かれています。

■軽大臣

「かるのだいじん・かるのおとど」(軽大臣・加留大臣・迦留大臣)のはなしは、『宝物集』や『下学集』(人名門)にあり、『源平盛衰記』(巻10)などでも俊寛[しゅんかん]のはなしでも、別離していた者が再会する故事として組費まれて登場します。

『下学集』では薬は「不言薬」と表現されています。「ものいわぬくすり」などと訓まれていたようです。

『源平盛衰記』での軽大臣は、薬をのまされたあと、額[ひたい]に「灯械」[とうかい]を打ちつけられて「とうだいき」にされてしまっています。延慶本『平家物語』(巻1末)では、迦留大臣と表記されており、

■道州からの献上品が灯台鬼

「とうだいき」のはなしは、白楽天[はくらくてん]の古註である『白氏新楽府略意』や、仁・義・礼・智・信についてのいろいろな教訓をしるした『五常内義抄』の「礼」についてのはなしのひとつにもあり、ソチラには「軽大臣」が設定されるまえのはなしが見られます。

「道州」のひとびとは背が低く、それを朝廷に対する特産物な年貢(任土貢)として「とうだいき」に仕立てて献上することがおこなわれていたので、「とうだいき」にされてしまった者は、生きながらにして家族とは離れ離れになってしまうのだ――といった内容が載っています。

道州に着任した楊成[ようせい]というひとがそれを知って、「とうだいき」の献上を止めさせたので、ひとびとは大変によろこび、その恩を忘れないために産まれた子供たちの名前に「楊」という字を入れて、長く という展開になっており、構成自体は全然異なるものですが、「とうだいき」という存在がどういうものとして理解されていたのかを知るうえでは欠かすことが出来ません。

これは、白楽天の詩に出て来る「道州民」ということばの解説のために古註のなかで創り出されたと見られるはなしで、「とうだいき」の基礎部分も幼学書の古註のなかで生まれ、どんどん設定がかたちづくられていった説話なようです。

▼灯台鬼
「とうだいき」は、見ひらきにいっしょに描かれている「どうじょうじのかね」とはとは浄瑠璃や物語として名前の知られるものとしての対幅になっています。

「とうだいき」はあくまで「軽大臣」がそのすがたにされていた器物の名称であると捉えれば、対に描かれている「絵」の見出しが「きよひめ」ではなくて「どうじょうじのかね」であることはあることは、いくぶんか氷解させることは出来るのではないでしょうか。

▼軽大臣[かるのだいじん]遣唐使[けんとうし]たりし時
軽大臣は、遣唐使として唐の国に行った大和朝廷の役人のひとりとして設定されています。

『下学集』の「軽大臣」の項や『和漢三才図会』(巻80・薩摩国)の鬼界島の箇所にある「軽大臣之故事」にかなりまとまった内容が記述されており、石燕の填詞[かきいれ]は、そういった資料を下敷きにしていると考えられています。

▼唐人 大臣に唖[おし]になる薬をのませ
唐の国のひとが、軽大臣にことばがしゃべれなくなる薬を投じて、自由を失わせたとされます。

▼身を彩り 頭[かしら]に灯台をいただかしめて 灯台鬼と名づく
頭頂部にも蝋燭をのせることの出来る灯台が取り付けられて、完全に「とうだいき」にされてしまいます。

古註などに存在して来たことを考慮すると、「灯台鬼」というのは軽大臣ダケではなく、道州のひとびとが何人もソレとして加工されていたことがわかりますから、当初は何十人何百人もいる前提のものとして、古註空間に存在していたと言えます。

▼その子 弼宰相[ひつのさいしょう]入唐[にっとう]して父をたづぬ
弼宰相[すけのさいしょう・ひつのさいしょう]は、軽大臣の息子。日本に帰って来ない父を探しつづけて、ついに唐の国にも赴きました。

息子の名前は、『下学集』では弼宰相ですが、『和漢三才図会』だと参議春衝[はるひら]になっています。

▼灯台鬼 涙をながし指を切り 血を以て詩を書して曰[いはく]
薬のちからでことばを発することが出来ないので、息子のすがたを目にした軽大臣は、自分の指を食い切って、流れるその血で、自分が父親であることを知らせる漢詩を書いたのでした。

石燕が填詞[かきいれ]に書いているのはそこまでで、親子であることがわかって、日本に軽大臣が帰って来るところまでは言及していません。このような省略は、それだけ「とうだいき」のあらすじを人々がなんとなく知っていたということからのものであり、填詞[かきいれ]に肝心なことが出て来ないようなものほど、創作の度合いがうすいということも知れます。

これにつづいて引かれている漢詩は、『下学集』や『和漢三才図会』の「軽大臣之故事」にあるものも同様の文です。漢文引用が填詞[かきいれ]につづいて登場する形式は百鬼拾遺では多用されている傾向があります。

軽大臣の書いた詩は、石燕や『下学集』、『和漢三才図会』は「我元日本華京客」(われもとにっぽんかけいのかく)としていますが、『宝物集』や『源平盛衰記』、。延慶本『平家物語』などでは「我是日本華京客」(われこれにっぽんかけいのかく)であって、字句の違いがあります。


up.2026.07.24


■灯台鬼…五常内義抄、源平盛衰記、和漢三才図会




▼灯台鬼…「竜灯鬼」像などもコレに類したもので、ああいったものにされて異国の地に幽閉されてしまっていたのが「軽大臣」なのぢゃ
▼軽大臣…『五常内義抄』の「礼」の第9のはなしのなかに「楊成」と「灯台鬼」のはなしがあり、古註説話として発生したものとみられているのぢゃ。『宝物集』や『平家物語』には大和国に軽寺(迦留寺)、『古今集注口伝抄』などには山城国の井手寺と結びつけている記載があり、縁起物語が付随する物語としてもそれぞれ分化していたらしいぞ
▼不言薬…『和漢三才図会』(巻80)の「軽大臣之故事」でも「不言薬」とあるぞ
▼幼学書…黒田彰「金玉要集と仲文章」(『愛知県立大学説林』38)でも、このあたりはまとめられており「灯台鬼という話材を広めたのは、どうやら幼学らしいことに注意する必要があろう」――と示しているのぢゃ。このあたりは『列伝体 妖怪学前史』などでもあつかっているように、古註空間で創作されていった説話や設定が、物語や戯曲を通じて「創作物として」拡大定着して、さらに根っこのないまま伝承として発生してゆく流れぢゃ
▼道州…◆醍醐寺本『白氏新楽府略意』曰「道州之人 其身短 長不過三尺 毎年造灯台鬼 進天子朝 父子兄弟乍生別離」
▼道州民…『新楽府』の「道州民」という漢詩にある「道州民多侏儒」や「市作矮奴年進奉」という文を解説するため(実際は、そのことばの意味を、おぼえやすく印象づけるため)につくられたのが「とうだいき」のはなしだといえるぞ



▼当初は…「道州」の古註を読んでいればのことであって、『源平盛衰記』などダケで「軽大臣」のはなしを摂取すると、そのあたりの前提は失われてゆくわけぢゃ