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よなきのいし

鳥山石燕百石乳|今昔百鬼拾遺

よなきのいし

夜啼石・夜泣石

「よなきのいし」には、小夜中山のはなしに即した填詞[かきいれ]が添えられています。

まえへつぎへ

■赤ちゃんのいる石

石燕は、石の上に赤ちゃんが抱きついているかたちで「よなきのいし」という画題を描いています。石の表面には「南無阿弥陀仏」の六字が彫り込まれています。

周辺は東海道の風景をイメージした景観が描き込まれており、道の両脇に植えられている松をはじめとした木々や、道沿いに建っている宿場の家並みが鳥観図のようなやや上空からの視点で配置されています。画面奥の雲の向こうにある山の先には、満月のようなものも見られます。

■命なりけり小夜の中山

『東海道名所記』をはじめ、「よなきいし」(夜泣石)は古くから版本でも紹介されていて、良く知られていました。実際に、東海道の途中にあり、19世紀に描かれた歌川広重『東海道五十三次』(保永堂)の「日坂」の絵にも「よなきいし」は描き込まれています。

夜泣石にまつわるとされる仇討のはなしも、東海道の近隣の茶店では物語をつづった摺物も販売されており、非常に良く知られていたようです。

『東海道名所記』では、日坂で暮らしていた女のひとが、実家に行く途中、小夜中山[さよのなかやま]で盗人に殺されてしまったが、お腹にいた赤ちゃんは無事に僧侶によって胎内から取り出されて救われ、お寺で育てられたとされます。そのときの男の子が15歳になったとき、僧侶が母親について語ったところ、男の子は寺を飛び出して犯人を探す旅に出て、やがて手がかりを得て、仇討を果たしたとされます。

『東海道名所図会』では、「よなきのいし」と「よなきのまつ」について書いていて、日坂で暮らしていた女のひとが、夫のもとに行く途中、佐夜中山[さよのなかやま]で山賊に殺されてしまったが、観音さまが僧侶のすがたとなって胎内からまだ息のあった赤ちゃんを取り出し、近所の親切な家に預けていったとされます。そのときの男の子は成人後、母親を殺した犯人探しの旅に出て、やがて手がかりを得て、仇討を果たしたとされます。

▼夜啼石
「よなきのいし」は、見ひらきにいっしょに描かれている「らじょうもんのおに」とは、親しまれて良く知られている妖怪として並べられているようです。

「茨木童子」が育ての親に化けてやって来ることも良く知られていることまで考えに入れれば、「養母/実母」の対比と採ることも出来ないでもありません。

▼遠州[ゑんしう]佐夜[さよ]の中山にあり
遠江国にある小夜中山[さよのなかやま]は東海道が通っているところでもあり、ひとびとには古くから良く知られていました。

佐夜という表記は『東海道名所図会』や『東海道名所記』の文中にも見られ、よくある表記揺れとして確認出来ます。

▼むかし孕婦[はらめるおんな]この所にて盗賊のために害せられ
赤ちゃんがお腹のなかにある女のひとが、悪人に襲われて斬られてしまいました――という箇所をキチンと述べています。

▼子は胎胞[たいはう]の内に恙[つつが]なく幸[さいはゐ]に生長して その讐[あだ]を報[むくひ]しとかや
そのとき、女のひとのお腹のなかにいた赤ちゃんは生きていて、成長後に自分の母親を殺した仇と巡り合い、仇討をすることが出来ました――と、そのまま石燕は結んでいます。

この点からも、存在として良く知られているものを特にふざけることもなく画題に選んで描いたものであるということもハッキリ理解出来ますし、石燕の作画意図としても仇討の要素のみがメインであって、石から夜な夜な泣き声がする――と言った要素のほうは、モトモト範囲内に入っていなかったのかも知れないということも考えられます。


up.2026.08.08

■夜啼石
■夜泣石…東海道名所図会




▼東海道…五十三次の宿場で言えば、日坂と金谷のあいだにあたるぞ
▼家並み…家の描き方や、やや俯瞰気味の視点の採り方は『東海道名所図会』の挿絵に近いかたちで描かれているのぢゃ
▼実家…金谷の宿場にあったとされるぞ
▼犯人を探す旅…『東海道名所記』と『東海道名所図会』ドチラのはなしでも、その旅の途中、男の子は常に「命なりけり小夜の中山」という歌をくちずさんで、それに興味を持ったひとから情報を訊いてみる、という手つづきで犯人の情報に近づいて行ったのぢゃ
▼犯人…池田の宿場に暮らしていたことが知れる。仇討の場所については『東海道名所記』と『東海道名所図会』の両方とも池田だとしているのぢゃ
▼夫のもと…金谷の宿場にいたとされるぞ
▼観音…女が日頃から信心していたと語られるぞ



▼佐夜中山…『東海道名所図会』では見出しも「佐夜」となっているぞ
▼恙なく…「つつがなく」は「無事に・何事もなく」の意味。俗に「つつが」は悪虫・悪獣の意味であるという語源説話があるぞ