『画図百鬼夜行』の最後には、跋文が石燕自身によって書かれています。
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▼詩[し]は人心の物に感じて声を発するところ
「詩者人心感物而 形於言之余也」――という朱子による『詩経』の注にある文句を下敷きにしたもの。
▼画[え]はまた無声の詩とかや 形ありて声なし
「詩中有画 画中有詩」や「詩有声画 画無声詩」――は、詩や画という表現全般に対して用いられる褒め方。蘇東坡
[そとうば]が王維[おうい]の詩と画を褒めたことばとして良く知られます。
王維は、詩と画のドチラもたしなんだ名うての人物ですから、文人や画家にとって「詩中有画 画中有詩」は理想の表現として受け取られていました。
▼そのことごとによりて 情けをおこし 感を催す
「興を促し感を催す」なども同様なことば。
▼もろこしに山海経[せんがいきょう] 吾朝に元信[もとのぶ]の百鬼夜行あれば
「もろこし」は唐土、「吾朝」は日本のこと。
太古のむかしに大陸でまとめられた『山海経』と、狩野元信[かのうもとのぶ]によって描き始められたとされてい狩野家で伝習されていた妖怪絵巻物を「漢のもの/和のもの」として対句表現しています。
▼予[よ] これに学[まなび]て つたなくも紙筆を汚す
「まなび」の箇所には、石燕が狩野家で実際に絵画を習っていたことも示されています。
狩野家の妖怪絵巻物で描かれて来た画像妖怪たちの多くが描かれている点が、『画図百鬼夜行』の「絵」のめずらしいところであり、画譜としての特徴だと言えます。
この点は、近世〜近現代を通じて「めずらしい」とされる点で、実際に錦絵や版本に狩野家の画像妖怪たちが網羅的に大量に描かれることは全くありませんでした。
これは、狩野家の画家たちは本式の絵画以外に筆を染めることを「掟」として禁じられていたからで、御殿向きの画家たちは御殿向きにしか絵は描けませんでしたし、町狩野の画家たちも富裕な商家たちを対象におなじく絵巻物・画帖・屏風・掛軸・襖などに絵を描くことダケが認められており、版下を描いたり、席画会に出たりすることなどは厳しく戒められていました。
▼ときに書林何某 需[もとむ]るに頻[しきり]なれば いなみがたくて桜木にうつしぬ
「桜木」は版木のこと。山桜がおもな材料だったことによるもの。「何某」は、本書をはじめとした石燕の画譜たちを制作した版元の出雲寺和泉掾と遠州屋弥七のうちのドチラかの主人。
版元のもとめがしきりに来るので断りがたく、画譜として刊行した――といったことを述べています。謙譲の表現であって、出版に関して触れた文章としては、よくある常套のことばです。
▼童蒙の弄ともならんかし
「弄」は「もてあそび」で「おもちゃ」などのこと、玩弄物。これも作品に対する謙譲の表現としておきまりのもの。
▼きのと未[ひつじ]の秋菊月
跋文の署名部分にある年次。安永4年(1775)のこと。
出版物の発売の多くは、お正月でしたので、それ以前――つまり発売前年の冬や暮れに序文が書かれている時空になります。
▼於月窓下
跋文の署名部分にある記載。「月窓」[げつそう]は石燕の号のひとつでもあります。
up.2026.08.24

▼詩者人心感物…この朱子の注の文章は『徒然草』の注釈書にも引用されており、122段の「詩歌にたくみに……君臣これを重くす」の箇所にあてられることがあるぞ
▼無声之詩…狩野一渓(1599-1662)が、画題についてをまとめている『後素集』(1623)の跋文にも「有声之画」と「無声之詩」という対句表現はあるし、葛飾北斎『絵本浄瑠璃絶句』(1815)に牧墨僊がつけてる序文にも「東坡の云 王維が詩は詩中に画意をあらはし 画中に亦詩意を写し出すと」とあって「画」についての故事と言えば――という位置を確立しつづけてたことばであることは良く知れるわけぢゃ
▼蘇東坡…北宋のひと。蘇軾とも
▼王維…唐の詩人。王摩詰とも。絵の腕前も知られており、南画の始祖としても知られるぞ
▼百鬼夜行…絵巻物の「題名」だとも言えるが、妖怪をたくさん描いていることを形容しての呼び方だとも言えるぞ
▼掟…ここから「外れたこと」をしていたのが幕末時点での河鍋暁斎や鮮斎永濯なのぢゃ
▼版下…木版摺りで商業印刷される絵草紙や錦絵のため絵。石燕の錦絵作品などがまったくないのは当然のことなのぢゃ
▼前年…老蚕による序文は安永4年の「冬」とあるので、石燕の跋はそれより先に書かれており、秋までには画稿も完成していたことが知れるぞ