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ふなゆうれい

鳥山石燕百石乳|今昔画図続百鬼

ふなゆうれい

舟幽霊・船幽霊

「ふなゆうれい」には、和歌の文句を折り込んだ填詞[かきいれ]が添えられています。目録では「船」の字があてられていて漢字の揺れがありますが、特に意味合いの違いがあるわけではありません。

まえへつぎへ

■柄杓で水を入れて来る

石燕は、舟に乗った「ゆうれい」たちの集団として「ふなゆうれい」を描いています。手にはそれぞれ柄の長い柄杓[ひしゃく]を持っており、海の水をそれでくみ込もうとしているようです。

5人いる「ふなゆうれい」と彼らの乗っている舟は、墨版で描き出されている波や雲とは異なり、ねずみ色の版のみで摺られており、輪郭が白く抜かれた木版独特の表現で描かれています。

■柄杓のないもの柄杓のあるもの

山岡元隣『百物語評判』(1686)の「舟幽霊」(巻4)では、溺れ死んで「底のみくづ」になってしまった人間たちが、海上に火のすがたや人間のすがたで出現するのが「ふなゆうれい」であることが示されています。

しかし、コチラのはなしのなかでは柄杓[ひしゃく]についての言及はなく、挿絵も波のなかに浮かぶ火と人間のすがたの「ふなゆうれい」たちが描かれているダケで、柄杓も舟も見られません。

結果として、石燕が『百物語評判』とはまったく異なる情報要素から「絵」を仕上げていることがわかります。

同書のおなじはなしのなかにある丹波国の「うばがび」の話題のなかには、「かわあかご」のモトとして用いられたと見られる要素も登場しています。

▼舟幽霊
「ふなゆうれい」は、見ひらきでいっしょに描かれている「かわあかご」とは水に関するもの同士として描かれているようです。こちらは水のなかでも「海」のほう。

▼西国または北国にても 海上の風はげしく浪たかきときは
「西国」や「北国」によく耳にされる、海上の風や浪の強いときによく出るものであるという「ふなゆうれい」の性質についての説明は、『百物語評判』(巻4)での「舟幽霊」の基本的な説明として言及されていることを、そのまま引っぱって来ています。

つまり、画像要素としては「絵」に用いていないものの、情報要素としては『百物語評判』のものをまず石燕は「填詞」に用いているわけです。

▼波の上に人のかたちのもの おほくあらはれ 底なき柄杓[ひしゃく]にて水を汲[くむ]事あり
「ひとのかたちをしたもの」が出て来るという点は『百物語評判』にありますが、柄杓[ひしゃく]で水をくみ込んで来るという性質については『百物語評判』のなかには言及されていません。

▼とわたる舟の楫[かぢ]をたえて ゆくえもしらぬ魂魄[こんぱく]の残りしなるべし
「由良の門[と]を渡る舟人[ふなびと]楫をたえ行衛[ゆくえ]も知らぬ恋の道かな」は『百人一首』にある曽祢好忠[そねのよしただ]の和歌で、その「ゆくえもしらぬ」を、海をさまよいつづけている「ふなゆうれい」に結びつけて石燕はたのしんでいるわけです。

「とわたる舟」は、箏曲の『菊の露』にも「落ちて流るる妹背の川を とわたる舟の楫だに絶えて かいなき世と うらみて過ぐる」などとあり、よく知られる歌の文句などにも活用されがちな言い回しでした。


up.2026.07.06

■舟幽霊…百物語評判
■船幽霊




▼底のみくづ…「底」は「海の底」、「みくづ」は「水屑」のこと。「海のもくず」ということぢゃ。◆『百物語評判』(巻4)曰「おぼれ死せし人のたましゐも いかにも火と見え形もあらはれ侍るべし 其形は底のみくづとなりて朽ちはて侍れど その気の残りし処 現れまじきにあらず」
▼丹波国の「うばがび」は人買いをしていた悪い老婆が洪水でおぼれしんで、川に怪火が飛ぶようになった――という河内国にあるようなものとは別のはなしになっているぞ。



▼百物語評判…◆『百物語評判』(巻4)曰「西国又は北国にても海上の風あらく浪はげしき折からは必ず波のうへに火の見え又は人形[ひとかたち]などのあらはれ侍る」
▼柄杓…鈴木桃野(1800-1852)の『反古のうらがき』(巻)にある「ふなゆうれい」の話題にも「ひさくを乞ふ時 底のなきひさくを与ふ 然らざれば水をすくひて舟に入るといふ」とあるので、昌平坂の学者さまも知っているようなことであったことはわかるのぢゃ
▼とわたる…「と」は「港」のこと
▼楫をたえ…楫を失って動けなくなってしまうこと
▼魂魄…たましいのことぢゃ