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百鬼夜行序元洲

鳥山石燕百石乳|今昔百鬼拾遺

(序・元洲)

『今昔百鬼拾遺』(内題は『百鬼拾遺』および『百鬼夜行拾遺』)の最初の序文は、元洲によって書かれています。滕武幹と名前は表記されていますが、儒者・漢学者らしいという点のみしかハッキリとはしません。

『本派本願寺名所図会』などにもおさめられている、本願寺法如(1707-1789)が詩文に勝れた人士たちから寄せてもらった寺庭の漢詩の中には、服部元立・服部元定・飯室偉文・竹内盈之・滕諧(公弼)・菅時憲(秋元小丘園)・橘元善・生山正方……などと共に「滕武幹」による漢詩も確認出来ます。

石燕が手掛けた版本に序を寄せている人物たちは、石燕あるいはその友人と直接の関係のある、文筆に長けた有名人士が顔を出す傾向が高いので、元洲もそういった人物であったであろうことが考えられますし、『画図百器徒然袋』でもつづけて、キチンと内容の傾向の異なる「序」を寄せているので、近しい存在であったことはうかがえます。

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▼画師石燕 隠老也
石燕のことを「隠老」だと表現しており、既に家督のようなものは子孫あるいは親族に譲っていたことが知れます。

しばしば考察のうえで語られることですが、『鳥山彦』や『絵事比肩』なども含めた、還暦を越えてからの画譜製作出版も、表向きの本業(お城づとめなど?)から隠居したことによって打ち込めたものであるとも考えられています。

▼性質温雅 庭成一簣之功 池引九仞之泉
石燕の性格がおだやかであるということや、その家の庭が凝った美しいものであったらしいことが評されています。

「一簣」は「もっこ(簣)にひと盛りの土」のこと、「一簣之功」[いっきのこう]は『論語』にある大きな山をつくるたとえをさすことば。「九仞」[きゅうじん]は「一簣」の対のことばでもあり、漢文調の文章には良く出て来ます。

▼春紅聞[目+見][目+完] 夏凉張沂楽 秋水流荻花 冬雪群関々
石燕の庭の四季おりおりのきれいさを述べたもの。春には花がひらき、夏はせせらぎが涼しく、秋にも花がいろどり、冬は雪がしずかに積もります。「関々」[かんかん]は小鳥たちの鳴き声に用いられるもの。

▼四時耽此楽事而 不知老之将至也
こういう季節のめぐりめぐりをたのしんで、年取ることも忘れて若々しくしている――といった褒めことば。

▼惟至同好者 欣然烹茶 勉然談画
趣味をおなじくする知人たちが訪ねてくれば、よろこんで茶を立てて、つとめて絵について談りつづける――といった、石燕の応対の仕方を述べたもの。

▼既下筆直足成百余図
そんな応対の席中にも、筆をとって絵を描きはじめればすぐにたくさんの作品が生まれた――といった内容。

▼奕々玄勝 可以賞矣
「奕々」[えきえき]はきらきらしていること、おおきいこと。「玄勝」[げんしょう]は荘老玄勝な詩文のような奥深さをいったものでしょうか。どちらも石燕の「絵」に対する褒めことば。

▼由此弟子益衆 成編且多 皆世之所知也
そのような石燕のもとに弟子たちがたくさんまなびに来ていることも、多くの絵手本を編んで来たことも、よく知られている、というコチラも褒めことば。

石燕のところに絵を習いに来る門人が、老若ともに多数存在していたことは実際にもよく知られています。その多くは当時よくあった武家や豪商などの子弟のあいだの「たしなみ」として絵を習いに来ていたひとたちで、職業的・工房的なあつまりではなかったわけですが、なかには喜多川歌麿や恋川春町、歌川豊春などのように、有名になったひとたちも多かったことが特殊なところです。

▼丙申春著百鬼夜行 己亥歳後編継出而 前後百鬼全焉
『画図百鬼夜行』(1776)と『今昔続画図百鬼』(1779)が出版されたことを述べたもの。

▼今茲辛丑春 書肆某又来 請幽冥之図 而欲以刻之
「書肆」[しょし]は本屋さんのこと。ここではこの本の版元であるところの出雲寺大和掾や遠州屋。『今昔百鬼拾遺』の企画が出たときのはなしを述べています

「幽冥」は本来は「あの世」などのことですが、ここでの「幽冥之図」の「幽冥」は「妖怪たち」(または「妖怪たちの世界」)の意味で書かれていると言えます。

欲以刻之(もってこれをきざまんとほっす)というのは、版木に彫って(刻んで)出版したいということ。

▼隠老 笑曰
石燕じじいはコレに対し、笑って言いました――といったカンジ。

▼多図之 即不啻損心力而 取譏千載 但恐鬼哭 夫如之何
このような、版にするための絵をいっぱいつくるというのは、心力をいたずらに損ずるものであるし、のこって千年も先までわらいぐさになるようなものですわい。それこそ鬼神たちが哭きわめく恐れがあるようなものですじゃ。

▼書肆曰
ソレに対して今度は本屋さんはこう言い返しました。

▼画工元是 尽無類之心 合有道之器 若夫雨粟鬼哭 亦骨力所至而 尚佳事也
画家さんたちというものは、描く者のすぐれた心と、ととのった画材とをうまく合致させて絵をつくるものでございましょう。粟[あわ]があめふり鬼[おに]がないたとしても、むしろそれはスバラシイことじゃありませんか。

雨粟鬼哭は「天雨粟 鬼夜哭」のことで、石燕の言っている「鬼哭」とおなじ内容で、太古のむかしに蒼頡[そうけつ]が「文字」というものを発明してしまったときに発生したとされるふしぎなこと。天からは粟[あわ]がたくさん降って来て、鬼神たちは泣きわめいたというもの。この内容は、お勉強によくつかわれていた『蒙求』のなかにある「蒼頡制字」でも述べられています。

▼強請 莫辞
このとおりおねがいしますから、どうぞ首を横に振らないでくださいよ。

▼於是無已而 探怪聚妖 而為三巻 題百鬼拾遺
石燕は断ることが出来ず、怪をさぐり妖をあつめて、また3冊にまとめました――といった顛末。

「三巻」は『今昔百鬼拾遺』の上・中・下の3冊構成を示したものです。

▼問序於余
――そんな『今昔百鬼拾遺』の序文をたのまれてしまった、という元洲のことばがここから先の部分の内容です。

▼余 以不才辞
つたのうございますから、とおことわりをしましたが――といった態度。ほかの序文でもだいたいみんな共通していることですが、過剰に謙譲して辞句をつらねるのが当時の序文の定式です。

▼隠老曰 負俗之図為嬰児之戯而己
コレに対しては、わしの世からはみでたような絵などは、おちびちゃんたちのあそびのようなものですわい――と石燕じじいは謙遜していました。

▼不才而且作序
不才ながらもこのように序文をつくってみた次第。

▼則是一怪事也 因妄固陋 而書其端矣
このような序文自体がひとつの「怪事」でありましょう、そんなことで、こだわりをなくして本のはしっこに誌るしおきます。


up.2026.07.20

▼元洲…元洲のことを「漢学者滕元州」と示しているのは星野朝陽「歌麿の墓所及過去帳発見の由来」(『浮世絵』33号、1918)の文中での発言あたりが見られるが「漢学者」であるとする典拠は特に示されておらぬぞ
▼四時…春夏秋冬のことぢゃ
▼不知老之将至…これも『論語』にあることばがモトで、「老いのまさに至らんとするを知らざる」は「年寄りになるのも知らずにいる」ということぢゃ。◆『論語』曰「発憤忘食 楽以忘憂 不知老之将至也」
▼勉然…つとめて修行することぢゃ
▼荘老…荘子や老子
▼玄勝…塚本哲三による『世説新語』(巻11・品藻)にある「玄勝」の語釈には「幽玄の勝趣」とあるぞ
▼今茲…いまここに
▼啻…ただ
▼無類・有道…『世説』(巻10・賞誉)には「以無累之神 合有道之器」とあるのぢゃ。もともとは「楽器を奏でる人間」と「楽器」についての内容で、楽器を奏でる人間のすぐれた心と、キチンと五行に則って調律された楽器とが合わさって、正しい美しい音楽が生じるといったことを述べたもの。◆『世説』(巻10)曰「以無累之神 合有道之器 宮商暫離不可得巳」
▼鬼哭…鬼哭神号。鬼神たちがわめきちらすこと
▼蒼頡…倉頡とも書かれるぞ。黄帝のときにいたひとで、顔に目が4つあったとされるおかたぢゃ。◆『蒙求』(蒼頡制字)曰「昔蒼頡 作書而天雨粟 鬼夜哭」
▼天粟雨…これは文字が発生したことで小賢しい知恵や悪い知略も世の中に大量に拡大し、些細な争いをつづける者の笛、耕作をする者がいなくなってしまうだろうという天のうれいからのものぢゃ
▼鬼夜哭…これは自分たちの性質や行動が記録されて多くの人間が何千何万年も共有しつづけられるようになってしまったという鬼神たちのなげきの声なのぢゃ
▼探怪聚妖…妖怪たちについて、いろいろと資料などを博捜したようなことがここでも示されているが、実際のところは石燕が自身でつくりだした画像妖怪たちも、かなり描かれているぞ
▼負俗…はみだしもの
▼嬰児…小さな子供
▼妄…「妄れて」とよむもので意味としては「忘れて」のものぢゃ