琴古主
「ことふるぬし」には古い筑紫箏(筑紫琴)に関連する戯文が填詞[かきいれ]として添えられています。
まえへ|つぎへ石燕は、琴[こと]の妖怪として「ことふるぬし」を描いています。琴の頭の部分をそのまま顔にして、演奏に用いる「懸爪」[かけつめ]を角あるいは耳に、絃[げん]をもじゃもじゃに生やして大量の髪に、それぞれ変形させています。
琴の胴の部分には穴や欠けが生じており、だいぶ壊れてしまった琴であることが強調されたデザインになっています。前脚のしたに踏まれている曲の本もぼろぼろに破けてしまっています。
周辺には「ことふるぬし」の体の一部にはなっていない「懸爪」がひとつと、爪箱[つめばこ]の蓋、琴袋などが散らばっています。
いっぽうで、琴には欠かせない部品であるはずの琴柱[ことじ]はひとつもすがたが見えません。絃はもじゃもじゃになっていますし、あるいは散逸してしまったのかも知れません。
石燕は土佐系統の絵巻物の画像妖怪をリデザインして描いており、『百鬼夜行絵巻』に描かれている琴の画像妖怪をリデザインしたものだと見られます。
石燕は、「琴」がそのまま動物のように前足と後足で歩き出している――といった画像要素の基本部分ダケを、琴の妖怪から抽出しており、デザイン自体は見くらべるとよくわかるように、細部の特徴で言えば両者はソコまでそっくりな画像妖怪ではありません。
琴の妖怪の場合、琴の前や後を「竜」になぞらえて「竜頭」や「竜尾」と呼ぶところから、しっぽが竜蛇のようにデザインされていますが「ことふるぬし」の場合、おしりが画面内に入り切っておらず、表現自体が用いられていません。
『百鬼夜行絵巻』では、琴の妖怪は琵琶の妖怪といっしょにいつもセットで描かれており、石燕も「琵琶の妖怪/琴の妖怪」の2体を「びわぼくぼく/ことふるぬし」という対としてヤッパリ描いています。
石燕は『画図百器徒然袋』の序文に明示されているように、「夢」のなかで見た「ぼろぼろな古御所」で遭遇した妖怪たちを描いた――という設定を一貫して用いて背景なども描いています。
「ことふるぬし」自体がぼろけていることも一貫した表現に則っていますし、室内であることを示すために背後に大道具として描き込まれている屏風[びょうぶ]も、仕立てがびりびりと破れて、中の骨組みや下貼りが見えてしまっている様子が描かれており、ぼろぼろさがハッキリと打ち出されています。
「琴」は「琵琶」と共に、『徒然草』の16段に「もののねには笛[ふえ]篳篥[ひちりき] 常に聞きたきは琵琶[びわ]和琴[わごん]」――と他の楽器と共に清少納言に倣った形式で推奨されており、『百鬼夜行絵巻』同様にモトから「対」の存在としてコチラでも存在していました。
また、70段でも「琴」と「琵琶」は登場しており、内裏の清暑堂で菊亭の大臣が牧馬(琵琶の名器)を演奏する前、たまたま触った琴の「琴柱」がひとつポロッと壊れてしまったが、たまたま続飯[そくい]を懐中に持っていたので、ソレで貼りつけ直してことなきをえた――というはなしも登場します。
▼琴古主
「びわぼくぼく」とは「楽器同士」な画像妖怪として『百鬼夜行絵巻』の並びをそのまま生かした対になっており、最初から一対の存在として想定して描いたものであることは非常によくわかります。
▼八橋[やつはし]とか云へる瞽[こ]しゃの
八橋[やつはし]検校のこと。瞽者は目が不自由なひとのこと。
▼しらべをあらためしより
曲や旋律を改めてから――ということ。
八橋検校は、若いころは三味線を弾いていましたが、途中から筑後国の善導寺に伝わる「筑紫楽」の流れをくむ「筑紫箏」(筑紫琴)の技を学び、そちらの腕で検校[けんぎょう]の位にまで出世しました。
その後、独自にあらたな歌詞と旋律をつくり、世に「八橋流」として広く受け入れられました。これは三味線などにも合わせやすい旋律に変えたからだと考えられています。石燕が填詞[かきいれ]で述べているのは、そのことです。
▼つくし琴は名のみにして その音いろをきき知れる人 まれなれば
八橋検校があらたにつくりだした「十三組」などをはじめとする八橋流の曲も「筑紫箏」(筑紫琴)と称されているのですが、古い筑紫流のものとはハッキリと異なる内容や旋律の曲です。
なので、モトモトの寺院で奏でられていた唐楽のような雅楽のような旋律・詠曲の「筑紫箏」や音色を聴いたり知ったりしている人がいなくなって来てしまった――ということです。
肥前国の僧侶・学者のあいだで残っていた正統な筑紫箏の側から「八橋流」は奥義の存在しない筑紫楽であって「俗箏」と称されてたそうです。佐賀藩の学者で琴の名手でもあった村島政方[むらしままさみち]も1740年代まで、自身の手で研鑽・整理しなおした「筑紫楽」を伝えて、教えていました。江戸城で雅楽を担当していた猪崎律斎[いのざきりつさい]も、村島政方からその筑紫箏の奥義を学んでいます。
世間では廃れてはいたものの、石燕が趣味として筑紫箏を嗜んでいたか・いなかったか、その実践者が身近にいたか・いなかったかによって、戯文の意図するところの解釈は揺れて来る面はありそうです。
▼そのうらみを知らせんとて かかる姿をあらはしけん
そんな今となっては全然流行っていない唐楽や雅楽のような「筑紫楽」の音色を忘れさせないように恨んで出て来るのが、この「ことふるぬし」という琴の画像妖怪かも知れないネ――と石燕はおどけているわけです。
「ことふるぬし」の填詞[かきいれ]は、新旧の筑紫箏の盛衰の落差を示した戯文の構成になっていますが、石燕がドチラの立場を「よいもの」としているのかハッキリと読み取りづらいため、「流行な八橋流がよいもの/権威な筑紫楽がわるもの」それとは逆に「聖制な筑紫楽がよいもの/淫声な八橋流がわるもの」ふたつの読み方が出来てしまうあたり、難しくもあります。
ただ、『画図百器徒然袋』の特徴としてそれぞれの絵は、まず第一の段階としては『百鬼夜行絵巻』の画像妖怪たちを参照しつつリデザインした画像妖怪でしかありません。ですので、この「ことふるぬし」も「琴の画像妖怪」でしかないため、填詞の中身と無関係だと言えば無関係ではあります。
up.2026.05.30
■琴古主
――石燕の手による画像妖怪
▼琴…「琴」は「きんのこと」、「箏」は「そうのこと」として本来は別物としてあつかわれているぞ。石燕は両者ともに「琴」を用いている。「仁智」を象徴する楽器だとされるぞ
▼掛爪…雅楽などで用いられる「箏」には爪が3個用いられるぞ
▼角あるいは耳…『百鬼夜行絵巻』にいつも描かれている琴の妖怪には特に角や耳の要素もないぞ
▼琴袋…弾かないときに琴をしまっておくための袋ぢゃ。綺麗な織物などでつくられているぞ
▼琴の妖怪…琴の妖怪には紐が結わいつけられていて、琵琶の妖怪がそれを引っぱって連れて歩いている恰好で描かれているのぢゃ
▼竜頭・竜尾…琴の総体をまるごと「竜」と見るので、先端にあけてある穴は「竜口」、背中にあたる絃の張られている部分は「竜甲」底の側を「竜腹」または「竜背」などとも呼ぶのぢゃ
▼おしり…「ことふるぬし」の場合、前足は描かれているが後足や尻のほうまでは描かれておらず、まさに竜尾の部位が確認出来ぬのぢゃ
▼下貼り…あらかじめ、したに貼り込んでおく補強用の紙。不要になった反故などが用いられるぞ
▼篳篥…「ひちりき」は雅楽・伎楽などの時代から用いられて来た楽器ぢゃ。風管・頭管とも
▼菊亭の大臣…藤原兼季のことぢゃ
▼牧馬…玄象(玄上)と並ぶ琵琶の名器ぢゃ。牧馬の絵が入っていることからの銘。『徒然草』を介さずとも名のとどろき知られているものだぞ。「びわぼくぼく」のはなしの中心にも出て来るぞ
▼ポロっと壊れた…常に用心のために準備をしておくべし――というはなしになっているが、菊亭の大臣に失敗をさせるために、琴柱をひとつダメにしておく細工をあらかじめコッソリしていた者があったらしい――という流れにしてある解釈もあるぞ。ソチラのほうが「つのはんぞう」の大伴黒主のはなしよりも陰湿な展開のものぢゃて。◆『徒然草』(70段)曰「いかなる意趣かありけん 物見ける衣[きぬ]かづきの寄りて はなちてもとのやうに置きたりけるとぞ」
▼続飯…ごはんつぶを煉ってつくる糊[のり]のことぢゃ
▼検校…「けんぎょう」は盲人に授けられる位のひとつ。座頭・勾当・別当よりも上の高位ぢゃ
▼瞽者…筑紫楽の正統の流れには、後々まで「俗」な音楽ではなく、「聖制の調」に沿った音楽だという気品が保たれており、若い女と瞽者には伝授をしないというおきてがあったぞ
▼善導寺…筑後国にあった、唐楽の琴の曲(筑紫楽)が古くから伝えられて来た寺院ぢゃ。伝書(『筑紫箏秘録』)では、その起源を、古代に渡って来て彦山(英彦山)にいた唐人から曲を教わった石川色子[いしかわのいろこ]であると結びつけているぞ。天文年間に、この寺で「筑紫箏」を大成させたのが賢順[けんじゅん]というひとで、筑紫流の始祖だぞ。唐楽が入っているので、唐音でうたう曲も伝えられていたのぢゃ
▼筑紫楽…平安京でおこなわれた「京楽」と対になるものとしての呼称と考えられているぞ。賢順の流れを受けた松隅桃仙(-1727)は、大和朝廷の儀式の場で、左右に配されていた高麗楽・唐唐のふたつをコレにあてはめて論理づけていたのぢゃ。◆松隅桃仙『筑紫箏秘録口訣』曰「京楽は高麗楽にて筑紫楽は唐楽ならん乎」
▼技を学び…八橋検校は、賢順の弟子だった法水[ほうすい]から「筑紫箏」を習ったぞ。法水は、同門の玄恕[げんじょ]に腕前で負けて、江戸にくだって琴の絃などを売る商売をしていたのぢゃ
▼歌詞…『伊勢物語』や『源氏物語』を題材に採ったりするなど、あたらしい工夫をした歌をつくったとされるぞ
▼十三組…八橋検校たちによる新曲たちのうちの13曲のまとまり。◆『琴曲鈔』曰「かの つくし楽は其声尤[もっとも]雅[みやび]にして俗耳に通しと終に是に淫声をくはへて新[あらた]に十三曲を出す 十三組といふ是也」
▼いなくなってしまった…都会では数を失ったが、八橋検校に技を伝授した法水からみて本流である、玄恕の門裔にあたる人々が肥前国で筑紫楽の詠曲を継承しており、幕末ごろに断絶があったが、その末には明治後期まで生きていた今泉千秋(1809-1900)などがいるぞ
▼村島政方(1702-1743)…佐賀藩士。玄恕の孫弟子にあたる武富咸亮や白翁から筑紫楽を学んだのぢゃ。政方の筑紫楽は聖堂(孔子をまつった廟)で演奏されたということからも「聖制の調」とされていたことが知れるぞ。1739年からは若君の学問指南役として江戸おもてに勤務していたぞ。
▼教えていました…村島政方の門人には肥前国で教えを受けた上野知利・伊東祐英などがおり、明治までつづくぞ
▼猪崎律斎…江戸城で紅葉山楽人を勤めていたぞ。律斎は酒井忠以(1756-1790)など大名に指南などもしているのぢゃ◆大田蜀山人『一話一言』(巻2)曰「姫路太守のみうちに猪崎律斎といへる人 つくし琴にくはしと祝阿弥いへり」
▼奥儀の存在しない…八橋検校が教え乞うた法水が、賢順から奥儀の伝授を受けた門人ではないことを言ったもの。◆松隈桃仙『筑紫箏秘録口訣』曰「格式古伝 少[すこし]もなく只[ただ]箏をひくばかりなり」
▼俗箏…反対のことばは「楽箏」。キチンとした聖制の音楽に用いられるということぢゃ
▼嗜んでいたか…筑紫楽の琴には「天人」を左右に描く「天人座」という部品が「竜尾」の箇所につけられるが、その描写部分が存在していないため、このことについても判別はつかぬことだ