払子守
「ほっすもり」には、趙州[じょうしゅう]和尚や禅に関連した戯文が填詞[かきいれ]として添えられています。
まえへ|つぎへ石燕は、もさもさした長い髪の毛をたくわえた払子[ほっす]の画像妖怪として「ほっすもり」を描いています。髪の生え際を見てみると、払子[ほっす]の柄が5本ほど確認出来ます。
前歯をくちもとからはみ出させながら、壇[だん]の上の分厚い畳[たたみ]に坐っている「ほっすもり」の頭上には、きらびやかな瓔珞[ようらく]がさがっていて、一見すると伽藍[がらん]のなかに祀られていても違和感ないようなたたずまいも醸し出しています。
石燕は土佐系統の絵巻物の画像妖怪をリデザインして描いており、払子の妖怪であるという点から『百鬼夜行絵巻』に描かれている払子[ほっす]の妖怪の画像要素が部分的に転用されたリデザインなのだろうかと見られています。
払子の妖怪から採られている画像要素は、「払子の毛が髪の毛になっている」というぐらいの重なりで、顔の特徴や姿勢などはサッパリ異なっていると判断しても構わないぐらいのリデザインだと言えるでしょう。これは見ひらきでいっしょに並べられている「しょうごろう」にも、同程度の大改変が加えられているデザインなので、そこまで違和感はありません。
「守」[もり]というのは舞台がお寺であるということから「堂守」[どうもり]などの響きから択んで、石燕が画像妖怪の呼び名として編み出したものだと考えられそうです。
石燕は『画図百器徒然袋』の序文に明示されているように、「夢」のなかで見た「ぼろぼろな古御所」で遭遇した妖怪たちを描いた――という設定を一貫して用いて背景なども描いています。
ただし、この絵では「しょうごろう」が巣穴にしていそうな仏壇のしたの戸棚に見られたようなぼろぼろさは壇や畳にも見られません。瓔珞については黒く表現されている部分が、煤けているのか、質感の色表現なのかの違いがわからないため、汚れているのか普通なのかの違いはハッキリしません。ただ、瓔珞の部品や蓮笠が途中で欠けていたり、脱け落ちていたりという表現は見られないので、壇や畳と同様に、特に汚し・壊しの手は入りられていないものかと考えられます。
このあたりの表現をうすくしてあるのは、「ほっすもり」のデザイン自体が、羅漢や僧侶として「むさい」妙ちきりんなすがたに既に仕上がっているからなのでしょうか。
『徒然草』の38段の後半には、「しひて智をもとめ賢を願ふ人のためにいはば 知慧出でては偽あり 才能は煩悩の増長せるなり」――とあって、知ったり覚えたりするような智識は、まことの智識ではない、万事はすべて「非」であるという内容も書かれています。
兼好法師は、38段の前半で「愚」な財宝の無用さを説いているわけですが、後半でも同様に名利に傾いている「賢」な智識についても、同様に不要なものだとしているわけです。「ほっすもり」に結びつけられている「そういうことを考えることすらも無である」という禅の回答も、『徒然草』のこの段と距離がごく近いことは「しょうごろう」での使われ方とあわせ考えると、わかりやすい例でしょう。
▼払子守
「しょうごろう」とは「仏具なもの」な画像妖怪として対になっています。『徒然草』の38段にある「利欲はいらない/智識もいらない」という内容も「対」の基本に見ることは出来ます。最初から一対の存在として想定して描いたものであることはよくわかります。
なお、石燕は「もくぎょだるま」と「ほっすもり」を仲間として設定していたようです。
▼趙州[じょうしゅう]
趙州和尚(778-897)のこと。趙州の観音院にいた僧侶。
▼無の則[そく]に狗子[くし]にさへ仏性[ぶっしょう]ありけり
狗子[いぬ]にも生まれながらに仏性はあるのかないのか――「狗子還有仏性也無」という質問に対して、趙州和尚は「無」とダケ答えたというもの。
「趙州狗子」[じょうしゅうくし]や「趙州無字」[じょうしゅうむじ]と称されて、有名なものですが「ほっすもり」の場合、この禅問答自体は禅師の答えのように完全なる「無」であって、むしろ重要になって来るのは『徒然草』の125段に出て来る、僧侶に対するあんまりな褒めことばのほうです。
125段のはなしに出て来る僧侶は、ひとびとから「実に良いおはなしでしたぁ〜」と口々に褒められますが、そのうちのひとりから「何とも候へ あれほど唐[から]の狗[いぬ]に似候ひなんうへは」――おぼうさまは、お顔が「唐の狗」のようだからこそ、本日の仏法のおはなしもお上手でございましたネと、あんまりな褒められ方をしています。
少し前歯をはみださせてまるい眼で正面向きに坐っている「ほっすもり」のデザインこそ、この「唐の狗にお顔がそっくりなおぼうさま」に寄せられているものであると見ると、石燕の「絵づくり」も「填詞」に趙州狗子を持ち込んできたのも理解しやすくなります。
▼伝灯をかかぐる坐禅の床
禅寺のこと。禅問答からの連想で、「ほっすもり」の坐っている寺院のことに描写を移しています。
▼九年が間うちふったる払子
禅つながりで、達磨[だるま]大師が9年間、坐禅をつづけたことを折り込んだものです。
「ふったる」には実際に動かすときの「振る」と、年月を経た意味の「経る」、両方の「ふる」の音が重なるような仕掛けになっているようです。
▼払子の精は結加趺坐[けっかふざ]の相をもあらはすべし
「結加趺坐」は「結跏趺坐」[けっかふざ]で、ほとけさまの坐り方のひとつ。
「狗子」と「払子」の字の似ていることから近づけて、9年間つかわれつづけた「払子」の精である「ほっすもり」もありがたい画像与回なのかも知れませんネ――と石燕はおどけているわけです。
高田宗賢『徒然草大全』(1677)にある125段の註(巻上7・百二十五)では「唐の狗」の褒めことばについて――「此段の心は愚[ぐ]なる人のたとへは 筆も心もかなひがたき事 つねに有[ある]ことなれば心得のためにかけるとみえたり」と示しています。
up.2026.05.24
■払子守
――石燕の手による画像妖怪
▼払子…仏具のひとつ。ながい毛をたばねたものに柄がついている道具で、モトモトは蝿[はえ]などの羽虫をおっぱらうための用途だったが、僧侶たちの持ち道具になっていったぞ
▼瓔珞…堂内や仏壇を飾るために吊るされる貴金属や宝玉などをあしらった飾り。魔力をしりぞけるためのものだとのことぢゃ
▼払子の妖怪…『百鬼夜行絵巻』での払子の妖怪は、長い払子の髪の毛で顔がほとんど隠れている状態で描かれており、喙[くちばし]のような口だけが顔の部品では確認出来るのみだぞ。衣裳も僧侶な衣ではない。絵巻物の「払子の妖怪」と「ほっすもり」を比較すれば、だいぶ別物過ぎる画像妖怪に仕上がっていることが知れるわけぢゃ
▼いっしょに並べられている…「ほっすもり/しょうごろう」とおなじく絵巻物の「払子の妖怪/鉦鼓の妖怪」も、となり同士でいっしょに並べて描かれていることにも注意だぞ
▼蓮笠…瓔珞のいちばんうえの部分。蓮の葉っぱのようになっている箇所を言うのぢゃ
▼脱け落ちていたり…明らかにぼろぼろ状態として描くのならば、飾りの玉の数などを不揃いにする、飾りの部品を板の間に落とすなどは簡単なハズだぞ
▼智慧…知恵とおなじ。
▼知ったり覚えたり…◆『徒然草』(38段)曰「つたへて聞き 学びて知るは誠の智にあらず いかなるを智といふべき」
▼名利…名聞と利益
▼趙州…120歳まで生きていたということは、よく寺院でも語られることぢゃ
▼狗子…「子」は単語のうしろにつけるはたらきの文字であって「狗子」でも「いぬ」の意味でしかないぞ
▼趙州狗子…この質問は『無問関』などの版本を通じて良く読まれてもいたぞ
▼あんまりな褒めことば…◆『徒然草』(125段)曰「あはれもさめて おかしかりける さる導師のほめやうやはあるべき」◆『徒然草大全』曰「人 此導師を或人そしりたると読あれども 既に本文にほめやうとあれば ほめやうのたとへ物のあしきなるべし」
▼唐の狗…近現代の注釈には黒川真頼(1829-1906)による「唐の狗」を「狆」[ちん]のような毛の長い犬だとする解釈もあるぞ◆鈴木弘恭『訂正増補 徒然草文段抄』(1894)曰「【増】真頼云。唐の狗は狆[ちん]也。狆は涙を常に流してある故に。此法師の時分から涙を流して説教したるをかくあざけりし也」
▼伝灯…仏法のおしえのことぢゃ
▼坐禅の床…坐禅をする場所。禅寺のことぢゃ
▼狗子と払子…「しょうごろう」も、「辰五郎」と「鉦五郎」は名前が似ているからという接続のさせ方なので、ここも対になっているのぢゃ