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かめおさ

鳥山石燕百石乳|画図百器徒然袋

かめおさ

甌長

「かめおさ」には老子のことばや能『猩々』に関連する戯文が填詞[かきいれ]として添えられています。

まえへつぎへ

■どしゃどしゃとめでたき甌で千穐楽

石燕は、舌をぺろりと出しながら、中身がとめどなくあふれ出させている瓶[かめ]の妖怪として「かめおさ」を描いています。瓶に顔があって、手が生えていることはわかりますが、窓から顔を出しているので全身がどうなっているのかはよくわかりません。

目と鼻の部分は瓶が欠けて出来た穴をそういうかたちに按配してデザインしていますが、そこはふしぎな力学がはたらいており、ソチラからの水漏れはありません。

蔦[つた]の絡まった釣瓶竿[つるべざお]のついた桶[おけ]が窓の外には置いてあることから想像すると、「かめおさ」の瓶は「みずがめ」なのかも知れませんが、モトモトは何の「瓶」だったのかについてはワカラナイのも味のひとつです。

■百鬼夜行絵巻からのここからリデザイン??

石燕は土佐系統の絵巻物の画像妖怪をリデザインして描いていますが、『百鬼夜行絵巻』にはハッキリと瓶[かめ]であるような妖怪は描かれていませんので、どの画像妖怪をリデザインしたものであるのかはハッキリしません。

しかし、液体をためておく器を発想の下地にして「かめおさ」を生み出したと捉えれば、『百鬼夜行絵巻』に描かれている台車の妖怪に乗せられて獣に牽っぱられている、樽あるいは臼のような妖怪は参考になっているとも考えられます。このなかにはおいしそうな液体が入っており、角盥[つのだらい]の妖怪が柄杓[ひしゃく]でそれをすくって盃に酌んでいる様子から、お酒を連想することは、とても容易です。

■瓶ひとつさえも世への執着

『徒然草』の98段には「後世を思はん者は糂汰瓶[じんだがめ]一つも持つまじきことなり 持経 本尊にいたるまで よき物をもつ よしなき事なり」――とあります。経典や仏像もどんなに良い物を持っていても意味がないのはモチロンのこと、糂汰瓶(ぬかみそをつけるような瓶)ひとつすら所持していないことが、極楽往生のためには大事なことだ という仏門のおしえが説かれています。

この「糂汰瓶」の箇所から「瓶」が引き出されて、要素を膨らませて「かめおさ」がデザインされたのだろうと考えられてはいます。「経典・仏像」に対比する下卑た日用雑器として「糂汰瓶」が挙げられているわけで、「瓶」全般あるいは「身のまわりの品物すべて」をひっくるめているこの文を、最後に持って来ていることが意識されていたものだとすれば、おもしろい点です。

また、『徒然草』の1段にある「ありたき事」(たしなんでおくと生きるにはたのしいのだろうとされること)として「げこならぬこそ をのこはよけれ」と、下戸[げこ]とは逆のことを連想させる描写はありますので、填詞[かきいれ]で能の『猩々』が出て来ることに関しても接続しやすい、ごく簡単な箇所が見えます。

――この曲に登場する「しょうじょう」たちは泉のように酒がつぎつぎに涌く、大きな壺を持っています。

■ぼろぼろな窓からどうぞ

石燕は『画図百器徒然袋』の序文に明示されているように、「夢」のなかで見た「ぼろぼろな古御所」で遭遇した妖怪たちを描いた――という設定を一貫して用いて背景なども描いています。

「かめおさ」は窓にはめらられている竹と木で組まれた格子をぶちやぶって顔をのぞかせています。また、板葺きの屋根も既に穴や欠けが生じていますし、草や蔦[つた]がもこもこと発生しているため、窓が破壊される以前からぼろぼろな建物であっただろうことは想像出来ます。


▼甌長
やまおろし」とは「台所にあるもの同士」な画像妖怪として描かれており、最初から一対の存在として想定して描いたものであることは非常によくわかります。

海中あるいは竜宮に暮らしてるとされる「しょうじょう」たちの登場する能『猩々』の詞章を生かしている点――などから言えば「かめおさ」は総合的には「海」を示しており、この見ひらきを「山/海」の対幅にして遊んでいると考えることも可能です。

▼わざはひは吉事のふくするところと言へぱ
「禍[わざわい]は吉事の伏[ふく]するところ」の意味。

『沙石集』には「老子の云く 禍は福の伏する所 福は禍の伏する所といへる」とあり、石燕の書いているのも、老子[ろうし]のことばとして知られることばの内容を引いたものです。

『唐詩選』の注釈書である『唐詩選国字解』(1782)でも、駱賓王「帝京篇」に出て来る「生倚伏信難分」という詩文の註(巻2)は、老子のことばを示すつつ「禍は福の伏する処 福は禍の伏する処」と書いており、いろいろなところに顔を出していた格言であったことがわかります。

▼酌[くめ]どもつきず 飲[のめ]どもかはらぬ
能の『猩々』には「よも尽きじ 万代[よろづよ]までの竹の葉の酒 酌めども尽きず 飲めどもかはらぬ秋の夜の盃」――と、いくらお酒を酌んでも飲んでもなくならずに涌き出て来る壺を踏まえた詞章があり、それをそのまま引いて接続させています。

禍が過ぎれば福になり、福が過ぎれば禍になるという「人間の一生のあがりさがり」の流れを、酌んで飲めばその分は減るけれども、酌んで飲んでいるうちに増えている「猩々の壺のなかの泉のように涌くお酒」に引き寄せて遊んでいるわけです。

▼めでたきことを かねて知らする甌長[かめおさ]にや
「しょうじょう」たちの持っているいくらでもお酒が泉のように涌いて来る壺のように、おめでたく中身が出て来る瓶の画像妖怪が「かめおさ」なのかも知れないネ――と石燕はおどけています。

「よいもの」あるいは良く知られた「あるもの」として「しょうじょう」たちの壺を提示した上で、おなじようにどしゃどしゃと中身の出ている瓶の妖怪であるという様子の「絵」に重ねるかたちで落差を示しています。いっぽうで、意識的に「祝儀」な内容を填詞[かきいれ]のなかで示すことで、『画図百鬼夜行』の最初に「こだま」で能『高砂』を用いていたのとおなじ効果を示しています。


up.2026.06.09

■甌長
――石燕の手による画像妖怪



▼釣瓶竿…井戸から水をくむための長い竿。先に桶(釣瓶)がついており、それを井戸におろして水を入れて持ち上げるのぢゃ
▼味のひとつ…「かめおさ」から湧き出ているのが「お酒」だとすれば、モトモトが「ぬかみそがめ」や「みずがめ」などの別の用途の瓶であればあるほど以外性のおもしろさや変な味のお酒かね知れないという滑稽が生じるぞ。また湧き出ているのが「ただの水」だとしても、猩々の瓶とは真逆だという落差で妖怪としての「絵」になるところも、また味なのぢゃ
▼獣…台車の妖怪を曳いている獣は、猪のような牙が生えているぞ
▼樽…臼だとされることが多いが、液体が入っていることを考えれば樽のほうが妥当であろう
▼臼…樽に液体を入れることは普通過ぎるので妖怪たちであれば臼に入れるような乱行があっても不自然ではなかろうということで、臼だと考えることも問題があるわけではない
▼角盥の妖怪…コチラは「つのはんぞう」の画像要素として石燕は使っているぞ
▼糂汰…じんだ・じんた。糠味噌[ぬかみそ]あるいは醤[ひしお]のような調味料のこと。『沙石集』の「道人執着を捨つ可き事」でもおなじおしえは「秦太瓶」の表記で出て来るのぢゃ。◆『沙石集』曰「秦太瓶 一[ひとつ]なりとも執心とまらん物はすつべし」
▼糂汰瓶…この98段からの発想であるという説は稲田篤信・田中直日『鳥山石燕 画図百鬼夜行』(1992)の「かめおさ」の解説で説かれている考察ぢゃ
▼ありたき事…◆『徒然草』(1段)曰「ありたき事は まことしき文[ふみ]の道 作文[さくもん]和歌 管絃の道 また有職[ゆうそく]に公事[くじ]の方 人の鏡ならんこそいみじかるべけれ 手などつたなからず走りがき 声をかしくて拍子とり いたましうするものから げこならぬこそ をのこはよけれ」
▼猩々…海にいる赤い毛の生物たち。この曲のモトになっている泉のようにお酒の出て来る猩々の壺のはなしも『庭訓往来』の「市町之興行」ということばを解説するための「古註」のなかで生み出されている説話なのぢゃ
▼大きな壺…◆能『猩々』曰「この壺に泉をたたへ 唯今返し与ふるなり よも尽きじ」




▼吉事…傍訓がないので「きちじ」と「よごと」いずれのよみを想定していたのかは未詳。ドチラも3音なので判別はつきがたいのぢゃ
▼老子のことば…『老子』には「禍兮福之所倚 福兮禍之所伏」とあり、これがモトなのぢゃ
▼生倚伏…「生」は人間の一生、「倚伏」はあがりさがりで『老子』の該当箇所にある「倚」と「伏」の字を採ったものぢゃ
▼竹の葉…「笹・ささ」ということで「お酒」の異名ぢゃ
▼かねて知らする…能『昭君』では「日は山の端[は]に入相[いりあい]の かねて知らする夕嵐」とあり、「かねて」(予て)と「かね」(鐘)の掛詞が用いられることが多い字句でが、石燕は特にそっちには持って行ってはおらぬのぢゃ
▼おなじ効果…構成の最後に「縁起のよいもの」を置く効果は、お芝居にある「大喜利浄瑠璃」や「押戻し」などの効果と同様なもので、『今昔画図続百鬼』(実質は『画図百鬼夜行』後編)では「かねだま/あまのざこ」からの「日の出」、『今昔百鬼拾遺』でも「たきれいおう/はくたく」からの「かくれざと」であったことも、おなじことぢゃ。 また、『画図百器徒然袋』でも「かめおさ」のあと、さらに「たからぶね」とその絵に描き込まれた「日の出」がつづいて本当の末尾となるのも、そのような構成を意識していたことを如実に感じることが出来るぞ