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妖怪要説 鬼質学紺珠

鬼質時代 徳川代(Tokugaea era)

徳川代の各紀(絵巻紀・院本紀・絵本紀・著聞紀)は並立しており、互いに混淆をしつつ進化を進めていったと考えられる。

足利代に形成されていった芯が次第にひろまってゆき、そこへつぎつぎと肉づけが進んでいったのがこの時代であるといって良い。また、そのいっぽうで文字による記録や編纂もひろい階層で進み、各地の伝承などもおおよその時代を確認できるかたちで残されるようにもなっている。それらの情報は、この時代における捉え方や理解あるいは批評などについて知ることが出来、考察の助けにもなる。

この時代に発生した区分は後の時代に新しく発生した区分とほぼ並立したまま現代まで存在しつづけている。それは、徳川代に存在していたが21世紀になるまでまったく目にかかることなく、現代に新要素を増やすこともなく存在していた妖怪たちも多数いることを考えてもらえば、わかってもらえよう。このような箇所が、動物や植物の地質時代区分と、妖界の鬼質時代区分の異なる点である。

後絵巻紀(ご-えまきき) Upper Emaki period

土佐家や狩野家によって『百鬼夜行絵巻』などが描かれていた頃。徳川代に入ってから妖怪の絵の形が増えており、ここを起点として画像妖怪の隆盛がきわまっていった。

言い伝えでは『百鬼夜行絵巻』は鎌倉代にも存在したとされるが、その確実たる内容や情報は残されていない。現存している『百鬼夜行絵巻』の大部分が描かれたのは徳川代以後であることからも、。

徳川代に栄えたものであるがその原型は足利代(おとぎ紀)に発生しており、18世紀以後に描かれた絵巻物(尾田郷澄『百鬼夜行絵巻』や各種来歴が不明な妖怪絵巻など)と区分するために、こちらを中絵巻紀と考える場合もある。

前絵巻紀との対比から命名。

明清紀(みんしんき) Ming-Qing period

明や清あるいは南蛮から輸入されたものが幅広く流入していった頃。 『三才図会』や『山海経』などの版本が大陸から輸入されていたのがこの頃。『山海経』は17世紀後期には日本でも刊行された。

『怪談全書』(1698)などをはじめ、明から渡って来た『剪灯新話』などにあった妖怪(牡丹灯篭など)は、『伽婢子』(1666)や『奇異雑談集』(1687)などを通じて日本に移された。『武王軍談』や『西遊記』などは後絵本紀(Upper Ehon period)

▼明(〜1644年)清(〜1912年)
▼南蛮交易によってもたらされたキリスト教にまつわる文物による進化などは明清紀に区分する。

前絵本紀(ぜん-えほんき) Lower Ehon period

仮名草子、浮世草子、好色本、赤本、黒本、軍記物語、実録本などの頃。特に版本として印刷されたりするようにもなったことが時代区分の大きな特徴である。 軍記物語では『前太平記』(1681)や『前々太平記』(1715)などがつくられ平安代から足利代を舞台としたものが広められた。実録本は軍記物語と並んで講釈畑で進化をつづけ、幽霊猫又狒々の分布を広めていき、院本紀の後期や後絵本紀に大きく影響を与えた。

浅井了意の『かなめ石』(1662年?)は地震と要石(かなめいし)との連絡が見られる古い年代のものである。

▼17世紀後半からは、江戸でも赤本、黒本、好色本などが生産されるようになり、上方以外にも画像妖怪に関する広い鬼質測定可能層が出来た。

院本紀(まるほんき) Maruhon period

浄瑠璃や歌舞伎などが大いに発達した頃。大きく分けると2つの潮流がいえる。

ひとつの流れは、猿楽紀(Sarugaku period)やおとぎ紀(Otogi period)からの連絡も深くある古浄瑠璃や、浄瑠璃およびそこから影響を受けてつくられた歌舞伎などの芝居にみられるもの。こちらの流れに属する妖怪たちは、かなり前絵本紀(Lower Ehon period)と密着している。
もうひとつの流れは、縁起物語のような構成を主としたものから転じて、軍談・実録・世間のうわさばなしなどがおもな種となってつくられるようになってからの浄瑠璃・歌舞伎などで、その表現に近づくようになったあたらしい講釈などもこちらに含めても良い。

後者の流れのなかで、幽霊たちに顔の変わるもの(累(かさね)の様式からの進化)、足の無い物が多く輩出されたが、はじめのころは猿楽紀(Sarugaku period)から直接摂られた生者の仮姿をはじめ、杖突、逆様、煙中などの形が一般的に存在してした。院本紀でのこの進化は、画像はもちろんのこと伝承空間にも「型」として影響を大きく及ぼしている。

猫又(化け猫)も、19世紀から院本紀の領域で大きな存在になっていったといえる。

▼通常、古浄瑠璃と浄瑠璃は近松門左衛門による作品がでる以前・以後でおもに分けられている。

新著聞紀(しん-ちょもんき) Upper Chomon period

各地方の噂話を集めたり、詳しい地誌などが編まれはじめた頃。『諸国里人談』(1743)『新著聞集』(1749)など。近代以後に確認領域が拡大していく地方の妖怪たちの伝承細胞の古い部分は、このあたりまでは正確に遡る事が可能である。

考証や西洋からの文化の輸入などの要素が加わっていった『兎園小説』(1825)などの随筆が書かれた頃をさらに分けて新々著聞紀とする場合もある。

落首や瓦版などの類は、この区分が適当ともされるが内容によっては絵本紀としたほうが至当な場合も多い。

▼新々著聞紀に区分を設けた際は、開化紀との区分は若干、あいまいもこもこなものとなる。

後絵本紀(ご-えほんき) Upper Ehon period

ももんじい世・野風世・しゅもく世の3つに細分できる。青本以後の絵草紙、読本の頃。 前絵本紀(Lower Ehon period)にみられた、「豪傑に蹴散らされるだけ」や「人々をおどかすだけ」というかたち以外の進化が認められるものが発生している点が後絵本紀の特色である。一方、これらと並行して前絵本紀(Lower Ehon period)の流れを発達させていった進化(しゅもく世)も続いた。

後絵巻紀(Upper Emaki period)前絵本紀(Lower Ehon period)に発達を遂げた画像妖怪の種類の増加が安定をみせた結果として、絵巻物から絵本へとその手法が拡大してゆき、さらに数多くの妖怪が画像妖怪として認識され、膾炙されていった。現代の画像妖怪の発達の仕方と動き方としては変わらないものであるともいえる。

▼物語の展開の上での重要登場人物としての個性がたかまり、単体の幽霊怪獣が主流になっていった。これにより、その他大勢としての登場機会は失われていった。これ絵本で享受される物語が総じて芝居調になったことに由来していると考えられる。

●ももんじい世(ももんじいせい) Momonzian

『当世故事付選怪興』(1775)などの洒落本から先の頃。それまでの妖怪などに加え、言葉や人間の有様をデザインした妖怪や、妖怪の生活を描いたものなどへの進化が見られる。

鳥山石燕による『画図百鬼夜行』(1776)以下の各冊はここまでの足利代・徳川代の各時代区分での伝承・画像の要素がそれぞれ含まれている。曰く、
◆『画図百鬼夜行』での狩野家の絵巻物に登場する画像妖怪の独自使用は後絵巻紀の流れを汲んでいる。
◆『和漢三才図会』を参考にしつつ搭載した妖怪たちは明清紀に舶載された知識によって拡大された妖怪の影響下にある。
◆猿楽紀・院本紀の画像妖怪たちも数多く描かれている。
◆『百器徒然袋』での土佐家の絵巻物に登場する画像妖怪を独自の妖怪にリデザインする方法は後絵巻紀と後絵本紀の手法の綯い交ぜである。

勝川春英『異魔和武可誌』も似た構成の絵本であるが、こちらはさらに画像成分の比率が高く『画図百鬼夜行』ほど多くの経路の盛り込みを読み取ることは出来ない。

前絵本紀(Lower Ehon period)から妖怪たちの世話生活(婚礼など)を描いた絵本作品は見られていたが、恋川春町・芝善交・十返舎一九・勝川春英らによってさまざまな世界設定を妖怪に吹き替えたものが描かれていった。特に『化物年中行状記』(1796年)や『妖怪一年草』(1808年)など妖怪たちの生活を描いた作品は、歌川国芳など後の世代の妖界の描かれ方の直接の土台となった。

●野風世(のかぜせい) Nokazean

合巻、読本などの頃。明清紀(Ming-Qing period)や新著聞紀(Upper Chomon period)などを素地として進化したものが多い。しかし物語の世界設定の多くは基本的に芝居や軍談が多く基礎となっており、院本紀(Maruhon period)の妖怪幽霊たちも数多く亜種分化をした。

読本の画家としては歌川豊広、歌川豊国、葛飾北斎、蹄斎北馬、渓斎英泉、柳川重信、岳亭丘山、神屋蓬州など挙げられる。画面や題材の工夫については、山東京伝・式亭三馬などといった作者の考証癖も手伝って特に加速してゆき、新奇なものが用いられるのが傾向ともなったが、逆にこれまでの絵本での画像妖怪たち――前絵本紀(Lower Ehon period)との隔絶を生むことにもなった。

合巻・読本には、意識的に古い絵本表現や明清・西洋絵画が用いられることも多かった。とりわけ海外の画像は、それを日本の妖怪や幽霊の表現として用いたり、唐天竺の要素という体裁でそのまま描いたりもしており、この時代区分の特徴として挙げられる(日本が開港をした安政文久のころから明治にかけてこの傾向はやや加速したがそちらは開化紀(Kaika period)に譲る)

▼神屋蓬州『天縁奇遇』(1812)に出て来る体に大量の口が出来てしまう野風(のかぜ)から。神屋蓬州(1776-1832)は自作自画の製作体制を採っていた作家である。
▼芝居の登場人物・趣向の綯交(ないまぜ)の数が増えていったことが、亜種分化の起因となっている。
▼西洋絵画の流入は浮絵・眼鏡絵を通じた遠近法の導入など、錦絵の初期頃から浮世絵にはいろいろな点で確認が出来るが、妖界についていえば陰影表現や写実性の高い銅板画などが発想の素材として用いられていった。

●しゅもく世(しゅもくせい) Shumokuan

野風世(Nokazean)とはほぼ同時に分化あるいは進化をしたもの。絵草紙や豆絵(おもちゃ絵)などに広く描かれるようになった。
ももんじい世(Momonzian)には妖怪の世話生活を描いた作品(年中行事・婚礼)は定番の画題となり、繰り返し用いられた。それらの作品に見られる妖怪たちは、この時代以前の画像から発展していったものもあれば、構成手法を習得することによってあらたにかたちを結ばれて誕生した画像妖怪も多数みられる。しかし、多くのしゅもく世の画像妖怪たちに共通しているのは、既に呼び名と画像とか結びついて膾炙されている画像妖怪以外ほとんどが個別の名称をほとんど持たされていないこと、作品や画面上から切り離された際に共通して理解される基本性質を持たぬ存在がほとんどであるということである。

天狗河童などはほぼ固定されて描かれるようになり、豆絵や絵双六などにも描かれている。とりわけもこの時期になると睾玉を八畳敷にしてさまざまな化け術をつかったりする様子が定番化して描かれるようになった。

▼ももんじい世(Momonzian)ころに発生し、この頃に名前が与えられ多く描かれていた撞木娘(しゅもくむすめ)が命名の由来。
▼豆絵は一枚の錦絵を縦横に細かく区切った中にいくつもの絵が描かれている形式のおもちゃ絵の呼び名のひとつで、これらは一枚ずつ切り分けられたり、貼り合わせて折本のようにしたりして遊ばれた。
▼狸の睾玉八畳敷が見られる画像作品は桜川慈悲成『黒手八丈狸金性水』(1798年)などがあり歌川豊国によって描かれている。

page ver.1.2 2018.7.16 妖怪仝友会