倩兮女
「けらけらおんな」には、「登徒子好色賦」についての内容も盛り込んだ填詞[かきいれ]が添えられています。目録では「けらけら女」とひらがな表記になっていて、よみやすくなっています。
まえへ|つぎへ石燕は、塀を超えるような巨大な大きさの女のひとの妖怪として「けらけらおんな」を描いています。名前のとおり、人間に対してわらいつづけて来るようで、口に手をあててにこにこと笑顔になっています。
家の敷地外から体を突き出している「けらけらおんな」の頭は、真っ白い元結[もっとい]で髪は綺麗に結われており、身につけている振袖[ふりそで]は立涌[たてわく]で統一された花菱の模様があります。
手があてられているのであまりハッキリうかがえないのですが「おおくび」とは異なって、歯はキラキラした貝がらのような白い歯なのかも知れません。
植木や塀が描かれているのは、「けらけらおんな」が巨大な寸法であることをキッチリ見た目でわかりやすくするためのものです。人間をいっしょに描き込めば、簡単に処理出来るようなことではありますが、「けらけらおんな」の「絵」の処置からも、石燕が百鬼夜行の画譜での主題を意識的に「妖怪」と設定しており、画面内に「人間」を極力いっしょに描かないことを選択していたことがよく知れます。
軍談・物語や、絵巻物や絵草紙などで先行して画像要素として存在して来た「巨大な女のひと」な妖怪を、切り出して独立させたものだと考えられます。
「おおくび」や「あおにょうぼう」として採り上げられている画像要素たちも、人間に対してわらいかけて来ることは共通していて、それぞれ地つづきな画像妖怪でもあります。
「倩兮」という文字列は『詩経』の「碵人」という漢詩に「巧笑倩兮」――とあるものから採られていると見られるもので、中村タ斎『詩経示蒙句解』(1720)でも、この箇所は「倩は口もとのよきぞ わらひかほの しほらしきを云」と解説されています。
「倩」の字は「うつくしい・かわいらしい」の意味があります。
ですので、『詩経』の流れが踏まえられていないと、「倩兮女」で「けらけらおんな」と訓むのはナカナカにむずかしいということでもあります。
▼倩兮女
「けらけらおんな」は、見ひらきにいっしょに描かれている「ひよりぼう」とは女のひとのすがたをした妖怪同士として対に描かれていると言えます。
つくり方から見ても、続百鬼での「あおにょうぼう/けじょうろう」の組み合わせとは非常に近い構成だと言えます。
▼楚[そ]の国 宋玉[そうぎょく]が東鄰[ひがしどなり]に美女あり
『文選』(巻19)などにも収録されて広く知られていた、宋玉[そうぎょく]「登徒子好色賦」の内容を下敷きにした文章が、このあとはずっとつづきます。
「ひがしどなりの美女」というのは、宋玉のおとなりさんとして暮らしていたむすめっこで、楚の国で随一と言えるくらいの美しいひとでしたが、宋玉は好色ではない証拠として毎日毎日、垣根ごしに見つめて来た彼女に動じることはありませんでした――というたとえばなしのなかに出て来る美女です。
▼嫣然[ゑんぜん]として一たび笑へば 陽城[ようじゃう]の人を惑[まどは]せしとぞ
「嫣然一笑」は、にこやか・にっこりほほえむこと。
「陽城」[ようじょう]は楚の国の地名のひとつで、おなじく楚の国の地名のひとつである「下蔡」[かさい]と対に並べられて「惑陽城 迷下蔡」――と「登徒子好色賦」にあり、陽城のものも下蔡のひともその色香には惑い迷う「ひがしどなりの美女」に対しての形容です。
「倩兮女」のように、「嫣然女」を「けらけらおんな」とよませても、別段問題はなかったと言えます。
▼およそ美女の人情をとらかす事 古今にためし多し
「とらかす」は「蕩かす」で、美貌にとろけてしまうこと。
石燕が「ひがしどなりの美女」のはなしを填詞[かきいれ]に活用しているのは、画面内で「塀」越しに「けらけらおんな」を描いたことからの連想だと言えますから、「美女」という形容は、ほとんど「ひがしどなりの美女」のほうのものであって、「けらけらおんな」の主要な要素ではない――ということも、よく考えておかないと読解のさまたげになる部分ではあります。
▼けらけら女も朱唇をひるがへして 多くの人をまどはせし淫婦[いんぷ]の霊ならんか
「ひがしどなりの美女」に宋玉がとろかされていたとしたら、この文章どおりの展開になるわけですが、宋玉にしても絵草紙に出て来るような豪傑も、こういう美女や妖怪に心を奪われることはないことをみんなは事前から知っていますので、ここでの表現も「――かも知れないネ」とまとめているものの、その提示は「落差」でしかなく、「そういう妖怪である」というまじめな結論や解説ではないことを意識したほうが、良い部分ではあります。
up.2026.07.27
■倩兮女
▼元結…幅広の白い紙でつくられたもので、髪を結うときに用いるものぢゃ
▼立涌…たてわく・たちわく。装束によく用いられる模様。桐・雲・菊などいくつも種類があるぞ
▼白い歯…宋玉「登徒子好色賦」では「歯如含貝」、『詩経』の「碵人」でも真っ白い歯は「歯如瓠犀」つまり瓜の種に形容されているぞ
▼巧笑倩兮…『論語』のなかにも、この『詩経』の文句は活用されているぞ
▼宋玉…『文選』にある宋玉の漢詩文を用いた填詞は「あめおんな」もあるぞ
▼好色賦…淫乱をいましめることを王様に示すために宋玉の書いた戯文。『万葉集』の時代から、貴族たちのあいだではコレを踏まえた詩文は数多いのぢゃ
▼好色…宋玉は、「ひがしどなりの美女」にこころを乱されなかったおはなしのなかの宋玉のような「ますらお」の対として、おはなしのなかでの架空の人物・登徒子を設定しており、髪もぼさぼさで乱れ、歯もガチャガチャな奥さんといつもイチャイチャして子供も5人つくっていると登徒子と、ドチラのほうが好色だと言えるでしょう――とつづっているぞ。