鞍野郎
「くらやろう」には、鞍[くら]と縁の深い鎌田正清に関連した戯文が填詞[かきいれ]として添えられています。
まえへ|つぎへ石燕は、鞍[くら]をはじめとした馬具の寄せ集まった妖怪として「くらやろう」を描いています。「くらやろう」自身は、保元の乱・平治の乱で活躍した鎌田政清(正清)の鞍だ、と称しているようですが、真偽は不明です。
顔は鞍[くら]になっていて洲浜[すはま]の部分が鼻、そのしたの空間が口になっており、力革[ちからかわ]や四方手[しおで]が下顎のようになっています。手は手綱[たづな]などの房紐で、鞭[むち]を持っています。頭からは馬衣[うまきぬ]・馬巾[ばきん]などのような綺麗な模様の入った布をかぶっており、それで胴の部分があるように表現しています。
「くらやろう」の周囲にも馬に関する物が散らばっていて、矢・藁的[まきわら]・木馬・轡[くつわ]などが見られます。
石燕は土佐系統の絵巻物の画像妖怪をリデザインして描いていますが、馬具に関する画像妖怪たちの例は乏しく『百鬼夜行絵巻』に描かれている描かれているどの画像妖怪たちを素材としたのかはハッキリしません。
住吉家に伝えられていた作品の写本(東京国立博物館)には、木馬の妖怪・鞍の妖怪のうえに二重にまたがった行騰[むかばき]の妖怪が描かれていますが、あるいはこの系統の画像妖怪には、ほかにも馬具の妖怪たちが豊富にいたのかも知れません。
いっぽう、石燕は器物自体を変えて転用するリデザインの手法も多く用いているので絵巻物の側で画像妖怪が「鞍」である必要もない点には注意が必要です。そう考えると、布をかぶった妖怪たちのうちのドレかなのかも知れない、ということもありますが、「絵巻物を用いていない」デザインが混ざっている可能性もなきにしもあらずです。
石燕は『画図百器徒然袋』の序文に明示されているように、「夢」のなかで見た「ぼろぼろな古御所」で遭遇した妖怪たちを描いた――という設定を一貫して用いて背景なども描いています。
この絵では、建具や屋台は特に描写がありませんが、類無造作に転がされている木馬や、散らばっている矢や轡が、荒れた様子を表現しているようです。
『徒然草』では185段で、城泰盛[じょうのやすもり]という馬術の名人は、厩[うまや]から馬を外に出したときの動きだけから、その馬の状態や気分を察知して、いちばん状態の好ましいものに「鞍」を置いて乗っていたというはなしを載せています。馬具たちが並んで出て来るのは、馬について載せているこの段や186段からの連想がまず最初にあったようです。
▼鞍野郎
「あぶみくち」とは『平治物語』を中心にした能や軍談の世界で重なり合った「馬具なもの」な画像妖怪として対になっています。最初から一対の存在として想定して描いたものであることはよくわかります。
石燕は、馬や馬具の出て来る『徒然草』185・186段に対して、能『朝長』の世界を基本融合させたようで、「鎌田正清・悪源太義平」と「源朝長」に関わる馬具のいわれを「くらやろう/あぶみくち」に「うたわせる」――という「修羅もの」な趣向を持ち込んだ填詞[かきいれ]に仕上げています。
▼保元の夜軍に 鎌田政清が手がらをなせしも 我ゆへなれば
『保元物語』で語られる戦功のこと。それらの手柄を鎌田正清(政清)が成し遂げられたのも、われ(「くらやろう」)の存在あってのことだと豪語している鞍[くら]の画像妖怪なのかもネ――と石燕はおどけているわけです。
この填詞のメインの内容が登場する『平治物語』でも「待賢門院の夜いくさ」、幸若舞『鎌田』でも「待賢門の夜いくさに」という文句があり、「夜いくさに…」というのは「悪源太義平・鎌田正清」が「平重盛」と激しく闘った有名な場面を描写するには「お決まり」な語り出しだったことが知れます。
▼いかなる恩をもたぶべきに
われ(「くらやろう」)に対しては、その恩に報いてごほうびをくれても良いのに――、といった意味です。
▼手がたをつけんと前輪のあたりをきりつけらるれば
「手形」というのは鞍の「前輪」につけられているまるく入れられている切れ込みで、「くらやろう」の顔で言えば、鼻の脇あたりにある切れ込みのことです。
『平治物語』では、重盛に退却されてしまったあと、降って来た雨が12月の寒さから鞍が凍りついて、鎌田正清がうまく馬にのぼれなくなってしまいます。そのとき、義平の助言にしたがって刀で刻み込んだのが「手形」のはじまりだと語られています。
――このよく知られていた「鞍の手形のはじまり」のはなしの内容を、「くらやろう」の視点を中心に据えて、「正清に、前輪(顔)を急に切りつけられた」と、ぼやき気味に語らせているわけです。
▼気も魂もきへぎへとなりし
切りつけられてびっくりした「くらやろう」のこころを吐露させている箇所です。
「きもたましいも」という言い回しは「肝魂も」というかたちで軍談にしばしば登場するもので、ここでもそういう言い回しを用いることで調子をととのえています。
▼うたふ声
能の「修羅もの」のように「くらやろう」がうたいながら語ってくれた――という状況設定を示しています。
この設定は、そのまま見ひらきでとなりに描かれている「あぶみくち」にそのままつづいており、「見ひらき」での接触をしないと状況設定が伝わらない構成になっています。
up.2026.05.26
■鞍野郎
――石燕の手による画像妖怪
▼鎌田正清(政清)…源義朝の忠臣で、とても図体が大きくつよい武将ぢゃ。
▼保元の乱…1156年に起こったいくさぢゃ。崇徳院の勢力と後白河帝の勢力とが対立したぞ。崇徳勢には源為義・平忠正たち、後白河勢には源義朝・平清盛たちがついて争ったのぢゃ
▼平治の乱…1159年に起こったいくさぢゃ。後白河帝の勢力だった、源義朝たちと平清盛たちとが対立して源平の対立がさらに色濃くなったぞ
▼鞍…またがる箇所に置いてすわるための馬具
▼称している…自称していたようだとする構成は「かみおに」などにも見られるぞ
▼鞭…竹で出来ている「むち」を持っているぞ
▼馬衣…馬にまとわせる大きな布。家紋などを入れるのが決まったかたちだったことも『和漢三才図会』(巻33・車駕類)の「馬衣」の項でも知れるぞ
▼胴の部分…布のふくらみで胴の部分があるようにみせる手法は「しゃみちょうろう」でも石燕は用いているぞ
▼矢…「弓馬の道」と称されるごとく、武家にとって馬術と弓矢は必須のものぢゃ。鎌田正清は図体が大きいので使う矢も大きな寸法だったと語られるぞ
▼巻藁…弓矢の鍛錬に用いる「まと」ぢゃ
▼木馬…木製の簡単なつくりの馬で、手綱さばきや乗り降りの練習に子供のうちから用いるぞ
▼例は乏しく…英一蝶が描いたと仮託される系統の絵巻物(『百器夜行絵巻』など)には、鐙[あぶみ]は確認出来ますが鞍[くら]はいないぞ
▼住吉家…住吉如慶が1617年に写した「妖化物之絵」(ばけもののえ)として伝わっていた作品を、1829年に狩野養信が模写したのが東京国立博物館に現在のこっているぞ。「たいまつまる」の素材になっている『百鬼夜行絵巻』に普通にいる画像妖怪(魔縁)とも重なって来るのでヤハリ注意がいる部分ぢゃ
▼鞍の妖怪…黒い「鞍」に目が生えてるダケのかたちをしているぞ
▼行騰の妖怪…馬に乗るとき、狩りに行くとき、腰にまとうための毛皮ぢゃ。「むくむかばき」にも関連して来るぞ
▼城泰盛…城陸奥守泰盛。馬術の名手として知られたひとぢゃ
▼悪源太義平…源義朝の長男。源義平。鎌田正清からみれば、主人のいちばん上のぼっちゃま
▼修羅もの…能の分野のひとつ。死後に阿修羅道の苦しみを受けている武将たちの霊を主軸にした物語になっているぞ
▼幸若舞…幸若舞『鎌田』も能『朝長』とおなじく平治物語の世界を描いている、重なる作品ぢゃ
▼平重盛…平清盛の子、保元の乱が初陣だったぞ。平治の乱では「葉武者の相手などせずに、大将である重盛ひとりを狙えッ!!!」と作戦を飛ばした義平と激しく奮戦をくりひろげる場面がよく知られておるぞ。◆『平治物語』曰「端武者どもに目な懸けそ罪作りに 大将重盛計りに目を懸けよ」
▼手形…絵手本として広くつかわれた『絵本写宝袋』の「鞍」の絵に添えられている解説にも、義平と正清のはなしはみられるぞ。「鞍といえば」という安定してありふれた説話だったわけぢゃ。同書では「てがた」ではなく「てがけ」と称されているぞ。◆『絵本写宝袋』(巻2)曰「手掛は平治の軍[いくさ]の時 雪[ゆき]鞍に積み鎌田正清のりかねたり 悪源太 手掛をせよとありしかば 正清刀を以[もっ]て手かけを付[つけ]しとなり」
▼前輪…鞍の前面の部品。うしろにくるのは後輪
▼鞍の手形のはじまり…実際、『平治物語』の本文が言っているわけですが、古くからこの点は「義平が正清に対して手形をつくって乗れ、と固有名詞をつかって命じているのだから、それ以前から手形という概念はあっただろう」という指摘がつきまとっているぞ。軍談にはよくある古註な創作設定だと見たほうが自然ぢゃろう。◆『平治物語』曰「平治の合戦よりして鞍の手形はありとかや」
▼肝魂も…「きもたましいも」ということばは軍談に非常に多くみられるので、音としては変わらない「気も魂も」という書き方の写本や書法があっても特に違和感はないのぢゃ。◆『平家物語』曰「肝魂をうしなって」◆『保元物語』曰「肝魂を消させおはします」