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ぬらりひょん

鳥山石燕百石乳|画図百鬼夜行

ぬらりひょん

ぬらりひょん

「ぬらりひょん」には、呼び名のみが絵に添えられています。

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■狩野系統絵巻でのぬらりひょん

狩野家で描かれて来た妖怪絵巻物にも、「ぬらりひょん」は描かれており、石燕の「ぬらりひょん」も、そのデザインを用いて描かれています。おおまかな見た目の特徴は重なっていますが、石燕のデザインでは全体的に頭部が小さめ・控えめにリデザインされており、衣裳も羽織をつけたり、草履や足袋を履いたり、華美になっており、独自に工夫されてもいるようです。

胴体よりも頭部のほうが大きい狩野家のデザインとおなじ比率で頭部を描くとしたら、石燕の絵なら、板戸ぐらいの縦幅、あるいは画面の匡郭[きょうかく]ギリギリいっぱいぐらいまで大きくないと、モトモトの比率の大きさではないと言えます。

狩野家の絵巻物は妖怪のデザインのみで背景の存在しない例がほとんどです。石燕は駕篭[かご]でお出かけに来たすがたで「ぬらりひょん」を描いているのですが、どうしてこういう舞台設定にしているのかについては特にハッキリとはしません。

■寒い頃に

石燕は、玄関先に炭の入った火鉢や帳面、手燭を小道具として配置しているほか、前栽として雪をかぶった小さい木を描き込んでいます。これらの大道具・小道具から、冬であること・夜であることは「絵」の場面設定として把握することが出来ます。

また、石燕の描いている「ぬらりひょん」の様子は、法体なのに派手めな衣裳であることや、腰に刀が1本あり、右手に扇を持っているようなすがたから、幇間医者・慶庵医者のようなかたちがあて込まれているようである――といったことは、しばしば観察されている点ですが、コレは同時代の絵草紙での画像妖怪たちにも見られる「見ため・性質から仮託された職業」であって、いうならば狐狸たちに「歌舞伎俳優」、河童川獺に「船頭」、提灯おばけに「お供をするやっこさん」などがあてられるのと大差ないものに過ぎないようです。

そのあたりを差し引くと、「ぬらりひょん」は狩野家の絵巻物で描かれている画像妖怪にまで巻き戻ると、頭の巨大な僧侶のような妖怪――という見た目の情報ダケの妖怪であり、「おおあたま」(大頭)などと大して変わりのない存在であると言えそうです。

■ぬらりひょん・うかりひょん

ぼーっとしている・とらえどころがないなどの意味で「うかりひょん」とか「うかりぽん」ということばがありますが、「ぬらりひょん」も音から考えれば、ほぼ同様な形容詞として存在していたもので、それを頭の巨大な僧侶のような画像妖怪の「呼び名」として、狩野家の絵巻物で添えていたのが妖怪としての「ぬらりひょん」なのでしょう。

「ぬらりひょんの花見は散ってすげもなし」(『落穂集』巻3)――という古い俳諧の1句も、「うかりひょん」とほぼ同様な、形容のことばとして用いられていた「ぬらりひょん」であって、特に「妖怪」を示す固有名詞なことばではなさそうだ、と見たほうがスマートに理解をすることが出来ます。

▼ぬらりひょん
「ぬらりひょん」は、見ひらきにいっしょに描かれている「がごぜ」とは狩野家の絵巻物に見られる独特な画像妖怪たち同士として描かれていると見られます。

ぬりぼとけ」、「ぬれおんな」、「ぬらりひょん」――と「ぬ」ではじまる画像妖怪をまとめているのは知れますが、「ぬっぺっぽう」に繋がらなかった理由は不明です。

がごぜ」には「元興寺」という絵巻物には添えられて来ていない漢字があてられているのに対し、「ぬらりひょん」には特に漢字はあてられていません。

「滑瓠」という用字は、近代に入ってから大槻文彦『大言海』(1934)に見られ、その後も『広辞苑』などに引き継がれていますが、石燕などがそのような字を用いていないことは『画図百鬼夜行』の目録や本文からもハッキリしています。

大槻文彦は基本的に「ひょん」という音に対して「瓢」の意味をあてる傾向が強くあり、「うかりひょん」に対しても「浮瓢」の意味だとしています。ですが、ソコについてのハッキリとした典拠は示されておらず、他の辞書での「うかりひょん」などに「瓢」の字があてられている例もほぼ見られません。

「ひょん」に「瓢」の意味を無理につけて解釈するのは、古義があるようにも見えるようでいて、実際は特に根拠があるものではない、近現代での「妖怪」としての解釈のひとつに過ぎないようですから、スタートラインとしては「ぬらりひょん」という「うかりひょん」と似たようなことばが存在していた――という点のみが、ハッキリしている古語としての「ぬらりひょん」だと言えそうです。


up.2026.08.20

■ぬらりひょん




▼羽織…狩野家の絵巻物での「ぬらりひょん」は羽織をつけていないぞ
▼草履や足袋…狩野家の絵巻物での「ぬらりひょん」は裸足ぢゃ
▼おなじ比率…河鍋暁斎『暁斎百鬼画談』(1889)のさいごのほうに描かれている「ぬらりひょん」の頭部の比率とも、比べてみると良いぞ。石燕の「ぬらりひょん」の頭部がとても小さくリデザインされているということは自然と感じているハズぢゃ。このような差は「あおぼうず」でも言えるぞ
▼医者…むかしの医者は、俗に落ち髪が薬に混じってはいけないということから頭髪も眉毛も剃っていたゾと言われるように、頭をまるめているのが常だったぞ
▼幇間医者…桜川慈悲成・歌川豊国『ばけものつわもの二日替』(1790)でも「ぶらりひょん」(ぶかりひょん)という画像妖怪が「」という設定で登場して来るぞ。この絵草紙では「ひとつめこぞう」がせがれ、「ろくろくび」が女房などと設定されているように、あくまで法体という見た目から「あてはめられた職業」でしかないところに注意がいるぞ。豊国による「ぶかりひょん」の絵は石燕よりも、狩野家の絵巻物に近く、頭部も巨大で足も裸足、羽織もつけていないのぢゃ
▼慶庵医者…『化物よめ入り』(18世紀中期)では「みこしにゅうどう」が慶庵医者という設定で登場してくるぞ。これも法体であることを活かしたもので、発想自体が近しいことぢゃ



▼「ぬ」ではじまる…「ぬっぺっぽう」と「ぬらりひょん」は対幅としても描きやすい(寺・坊な要素が互いに添えやすい)画題ではあると思うが、石燕の選択はそうではないところが考えどころぢゃ。実際、「ぬっぺっぽう」の舞台設定は寺院になっているぞ
▼大言海…◆大槻文彦『大言海』曰「ぬらりひょん【滑瓠】瓢箪鯰の如きつかまへどこのなき化物」◆大槻文彦『大言海』曰「うかりひょん-と【茫然】〔うかりひょんは、浮瓢の音便 瓢、軽くして水に浮ぶ、瓢軽[へうきん]と云ふ語も同じ意と云ふ、静岡県にて瓢軽をひょんきんと云ふ〕うかうかと。うかりと。うっかりと。」
▼広辞苑…◆新村出『広辞苑』(第2版)曰「ぬらりひょん【滑瓢】瓢箪鯰[ひょうたんなまず]のようにつかまえどころのない化物」
▼他の辞書…大正時代に売り出されていた上田万年・松井簡治による『大日本国語辞典』(1915)には、「うかりひょん」やその類語「うかりぽん」や、人名めかしたかたちの「うかりぼう」や「うかりひょんない」を載せているが「ひょん」に対しての「瓢」という説明は特にないぞ