加牟波里入道
「がんばりにゅうどう」には、お便所に関する大陸の妖怪の内容も盛り込んだ填詞[かきいれ]が添えられています。
まえへ|つぎへ石燕は、お便所を外からのぞきこむ「がんばりにゅうどう」のすがたを描いています。腰からしたは、にゅーっと細く地面からのびていて、足は描き込まれていません。この妖怪が地面のなかから出て来るものなのかは不明です。
お便所に出ると語られつづけている存在ダケあって、舞台設定はキチンとしたお便所の外観が大道具として設置されています。脇には手をすすぐための唐銅[からかね]で出来た竜之口形の手水鉢[ちょうずばち]と、手拭を掛けておくための輪が下がっています。近くにさげられている葉っぱと幣・縄のようなものはお正月を迎えるためにお便所用に掛けられたお飾りの類かと見られます。
12月の大晦日[おおみそか]にお便所に出るという内容が「がんばりにゅうどう」には基本的に語られており、お飾りらしいものがあるのも、そういう季節設定だと言えます。
手水鉢のまわり、つまり常に水を掛け流すところには石や常緑な草が植えられるのは庭づくりとしては定式なもので、この絵の大道具でもソレは意識されています。
「がんばり」にあてられた「加牟波里」は、万葉仮名式に無理矢理漢字にしたダケのもので特に字義はないようです。「加」にも目録でキチンと「が」と濁点も振られているので、「がんばり」であることは間違いのないところです。
この「がんばり」の部分については他の版本や随筆などで書かれるときも特に固定した字があるわけでもないようで、各々いろんな字があてられています。
「ほととぎす」は、死んだひとがあの世に向かう道中にある「死出の山」にいる鳥(別都頓宜寿)として『十王経』などで説かれている内容がひとびとに知られていましたが、江戸では「がんばり入道ほととぎす」というおまじないのことばとしても知られるようになりました。
石燕の描いている「がんばりにゅうどう」の口から発射されている「ほととぎす」は、鳴き声がするということを「絵」のデザインで見せている工夫だと言えますが、鳥のすがたや姿勢については『和漢三才図会』の「ほととぎす」の挿絵をかなりそのままお手本にして描いているようで、よく似ています。
『書言字考節用集』(巻5・気形門)では「ほととぎす」に「不如帰・別都頓宜寿・時鳥・郭公」などが用いられていますが、『和漢三才図会』(巻43・林禽類)では「ほととぎす」は「杜鵑」が基本の唐名になっています。
「郭公」という字も「ほととぎす」ではないという解説が古くからあるもので、『和漢三才図会』でも誤謬であるとしており、より精確なものが何であるのかの解説がごちゃごちゃしていた用字のひとつです。
▼加牟波里入道
「がんばりにゅうどう」は、見ひらきにいっしょに描かれている「ふるつばきのれい」とは、身近に知られていたような部類の妖怪として描かれているようではあります。
「つばき」と「ほととぎす」、漢字が一定してないものを含む同士であるとも言えます。
▼大晦日の夜 厠[かはや]にゆきて がんばり入道 郭公[ほととぎす]と唱ふれば妖怪を見ざるよし
「かわや」はお便所のこと。「世俗のしる所」とつづけられてもいるので「がんばり入道ほととぎす」と唱えると妖怪に出遭わない――とするおまじないが存在した様子です。
ここも「ようかい」ということばを普通に用いていることがわかる填詞[かきいれ]になっており、「みのわらじ」や「うんがいきょう」などと同様で、当時の江戸の人間たちの「妖怪」ということばの位置づけも、端的にわかる文章になっています。
▼もろこしにては 厠神[かはやかみ]の名を郭登[くはくとう]といへり
大陸では「かくとう」[郭登]という存在がお便所にいる、という情報要素は『琅邪代酔編』(巻5)や『居家必用事類全集』(丁集)にも見られるので、石燕もそれに属する内容を引いて来ていることが知れます。
▼これ遊天飛騎大殺将軍とて 人に禍福をあたふと云
「郭登」の異名や、性質についての解説も『琅邪代酔編』や『居家必用事類全集』に掲載されている情報要素がかなりそのまま引っぱられているわけですが、原文では「禍福」ではなく「災福」とあります。
『琅邪代酔編』の「郭登」が掲載されている箇所には直前に釜鳴[かまなり]をさせる鬼(妖怪)として「婆女」のことも掲載されています。石燕は「なりがま」の填詞で釜鳴を起こす存在として「婆女」ではなく別の系統に記載されていた「斂女」を用いており、直接『琅邪代酔編』を見て、この箇所を書いているのかどうかは、やはり周辺にある情報の使用量からの観察ではハッキリしません。
▼郭登[くはくとう]郭公[くはくこう] 同日の談なり
「同日の談」というのは本来は「同日の談にあらず」で「まったく異なるものだ」という意味になるわけですが「同日の談なり」とすることで「たいして変わらないものだ」ということにもなります。「かくとう」(郭登)と「かくこう」(郭公)という音の共通点を落差のある駄洒落として出しつつも、石燕が「良い対比の思い付き」であることを誇りつつ提示していることも感じられます。
up.2026.07.07
■加牟波里入道
▼竜之口形の手水鉢…おなじような形状のものは「ねこまた」の絵でも座敷のあがりぐちに設置されているのぢゃ
▼ほととぎす…お便所で鳴き声を耳にするのは不吉であるとするのは『荊楚歳時記』などに見られるものでモトモト大陸に伝わる俗信ぢゃ
▼口から発射されている…これは皿をひとつひとつ数えている様子を「絵」としてかたちにした「さらかぞえ」と共通した絵づくりぢゃ
▼あて字…「いつまで」で用いられている「以津真天」も同様のものぢゃ
▼もろこし…唐土・震旦。大陸の伝承要素では……ということぢゃ
▼ようかい…現代の画像妖怪たちとも同様な位置づけで「妖怪」のことを示しているのは、このあとに書かれている「あおにょうぼう」の填詞も同様ぢゃ
▼琅邪代酔編…「たまものまえ」では直接『琅邪代酔編』を参照している・していないがよくわからぬことを観察で取沙汰しているぞ
▼禍福…◆『琅邪代酔編』(巻5)曰「能賜災福」◆『居家必用事類全集』(丁集)曰「不可触犯 能賜災福」
▼婆女…『居家必用事類全集』に掲載されている釜鳴の妖怪の名前も「婆女」の系統なのぢゃ